説教

2013年4月28日

救いにあずかる定め
大坪章美


テサロニケの信徒への手紙一 5章 1-11節




パウロが初めてテサロニケの町へ足を踏み入れたのは、第二次伝道旅行中の途上でした。彼はこのテサロニケの町で、多くの異邦人の信者を獲得しましたが、ユダヤ人たちに妬まれ、騒動を起こされ、コリントの町に落ち着くのです。そして、この町で、後ろ髪を引かれる思いで後にした、テサロニケの信徒たちへ宛てて、50年頃に書き送ったのが、この手紙でした。

パウロは、「兄弟たち、その時と時期について、あなたがたには書き記す必要はありません」と記しています。ここで言われている、「その時と時期」とは、神の右に座っておられる主イエス・キリストが、再び地上へ来られる時、つまり、再臨の時についてのことです。

パウロが、このように、「再臨の時」について語り出したのには、理由がありました。その理由とは、テサロニケの教会の中に、「再臨の時に、既に世を去った信者たちの扱いがどうなるのかを考えて、悩み始め、そして、自分たち自身がどのような扱いを受けるようになるのかを、真剣に思い悩むようになった人々がいたから」なのです。パウロは、この問題について、自分がテサロニケにいた時に、もう十分、話したではないか、と言っているのです。しかし、一般の人々にとって、再臨は、予測出来るものではない、と言っています。安心している者に対して、主は、「逃れることのできない破滅をもたらす」と仰るのです。そして、その有り様を、陣痛に譬えて巧みに描き出しています。

ただし、これらの予測は、キリスト者ではなく、未信者の運命が語られているのです。4節でパウロは言っています、「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」と伝えています。今、ある世界は、暗闇の支配するところですが、イエス・キリストが、信じる者を、そこから救い出して下さったのです。

そして、その理由を、「あなたがたは、すべて、光の子、昼の子だからです」と言っています。イエス・キリストを信じる者は、光のうちに招かれ、日々、変貌を遂げ、大いなる日の勝利に与っているのです。そして、その大いなる日が来る時には、彼らは、彼ら自身の全存在の完成が果たされるのです。そしてパウロは、6節以下で、「昼の子、光の子」としての生き方を語っています。キリスト者は、「目を覚まして、身を慎んでいましょう」と言っています。「目を覚まして」とは、夜通し、目を開ける意味ではありません。もともと、昼に属する“光の子”であるキリスト者は、目覚めている者なのです。心と、精神とにおいて、真実に目覚めていることが大切なのです。パウロは語ります、「わたしたちは、昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と、節制への呼びかけをしています。

しかし、信仰と愛の胸当てを着け、希望という兜をかぶって身を慎む生活をしなさい、とパウロは勧告をしていますが、それが私たちにできるだろうか、という不安が私たちの心をよぎります。これに対しパウロは4節で、「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。」、5節、「あなたがたは、すべて、光の子、昼の子だからです。」と言っています。「闇の中から、出なさい」とも、「光の子になりなさい」とも言っていません。もう既に、救いに与る状態になっている、ということを繰り返し宣言しているのです。

その根拠が何処にあるか、と申しますと、パウロ9節で言っています、「神はわたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主、イエス・キリストによる救いに与らせるように、定められたのです」と記しています。そして、その救いが達成される道は、「主はわたしたちのために死んで下さった」という言葉で明らかにされます。「わたしたちが目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです」という言葉は、「私たちが生きていても、死んだにしても」という意味を現わしています。
その日、主イエス・キリストがもう一度来て下さり、私達の救いを完成して下さる日が来ることが約束されています。私達が、その日、生きていても、既に死んでしまっていても、主と共に生きるようになるのです。




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