説教

2013年4月21日

異端との戦い
大坪章美


コロサイの信徒への手紙 1章 15-20節





この手紙が書かれたのは、紀元59年か60年頃と考えられています。書かれた目的は、コロサイの信徒たちが、キリストの福音と競い合うような諸々の異端の教えに心を奪われ、惹きつけられて行くことに警告を発し、福音の真理を擁護することにありました。

パウロは、この頃ローマの獄中に捕われの身でありました。そして、ローマに居るパウロの許に、コロサイの教会がグノーシ的な異端の教えによって乱されているとの知らせをもたらしたのが、やはり、弟子のエパフラスであったのです。この知らせを聞いたパウロは、正統な福音の姿を示そうとして、筆を取ったのでした。パウロは、先ず、コロサイの信徒たちのために祈ることから始めます。10節には、「すべての点で主に喜ばれるように、主に従って歩み、・・・」と記されていますように、「主に従って歩む」ことが求められています。「主に従って」という言葉は、「主に相応しく」という意味でもあります。そのためには、「自分自身の肉の思いで物事を判断するのではなく、生活のすべてを神の御旨に適うように努めること」が大切なのです。

しかも、パウロは、この祈りの後に、「喜びをもって」と付け加えています。確かに、忍耐を持続できるためには、心が楽しむ状態でなければなりません。自分の状態に満足して、それに気に入っている者でなければ、耐え忍ぶことはできないのです。続く13節14節は、パウロの信仰告白が記されています。13節で、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました」と記しています。「闇の力から救い出して下さった」と記していますように、救いは、決して未来の希望に過ぎないのではありません。現在の状況でもあるのです。救い出される前は、闇の支配の中に住んでいました。私たちが思い描きますのは、経済的な力によって支配されている人間、非情な、科学的法則の支配の下にある人間でありますが、しかし、パウロの言葉が、時代遅れの神話を示しているのではないことも確かです。経済的な力、科学的な法則、大国間の争い、これらの働きの底には、パウロが語る悪魔的なもの、野獣的なものが潜んでいることに気が付きます。然し、パウロは、キリスト者はもはや、この闇の力の支配の中には、いないのだと、言っています。神様が、闇の力の支配から、愛する御子の支配下に移して下さった、と告白しているのです。

パウロは、15節以下に、高らかにキリスト賛歌を歌います。何故パウロがここでキリスト賛歌を歌ったかと申しますと、これは、コロサイの信徒たちが影響を受けた異端思想を持つ教師たちに対する反駁のキリスト賛歌でありました。パウロは、「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」と、歌っています。「生まれた方」と翻訳しています“プロトトコス”という言葉は、「生まれる」という意味よりは「最初の者」という意味の方が強いのです。キリストが、神の形として世界を支配される現実が、16節で歌われています。そこには、全て万物は、イエス・キリストにおいて、キリストによって、キリストを目指して創造された、ということが表されています。こうしてパウロは、キリスト賛歌を歌い終えました。そして次に、キリストが何故、最初の者、先在の者であり得るのか、という理由について述べています。19節です、「神は御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子のうちに宿らせた」と記しています。

このようにして、パウロはコロサイの信徒たちへ、キリスト賛歌を歌うことによって、信仰上の脅威に晒していた異端の偽教師たちの教えを退けました。グノーシス的考え方がはびこるのは、古代や中世のみではありません。時を超え、場所を変えて、現れてくるのです。コロサイの信徒たちを悩ませた、異端の教師たちは、イエス・キリストを、超越の神と、物質の世界との間に立つ仲保者の集団の一人に過ぎないという認識をもって、キリストとその御業を貶めようとしたのでした。パウロは、これを、キリスト賛歌、つまり、「神は、御子イエス・キリストを、神と同質のものとされた」と高らかに歌うことによって、退けたのです。




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