説教

2013年4月14日

人を裁くな
大坪章美


ルカによる福音書 6章 37-42節




イエス様は、「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない」と、語り始められました。この、イエス様の「人を裁くな」という命令は、ここで、唐突に現われたものではありません。伏線があったのです。直前の35節で、「しかし、あなた方は、敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。」と言われていました。

37節以下で、イエス様は仰ったことは、この、“無償の愛”の具体的な教えなのです。イエス様はいわれます、「敵を愛しなさい。あなた方を憎む者に親切にしなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と命令されるのです。しかし、私達は、何度この御言葉を耳にしても、「分かりました。主よ、お言葉どおり致します」と言って、喜んでお従いする気持ちが湧いてこないのです。「自分を敵視し、憎んでいる者を愛しなさい」と言われると、やはり躊躇してしまうのです。・・それが、以前の私達の姿でした。

イエス様は、この後、ガリラヤでの伝道を終えられると、エルサレムへ上られ、十字架につかれました。イエス様は、ご自身が捕らえられ、裁かれ、罪に定められたにもかかわらず、捕らえ、裁き、罪に定めたユダヤ人たちのために、そして神様に背いていた私たちのために、主なる神様に、執り成しの祈りを捧げて下さいました。そして、この、イエス様の贖いの死によって、本来、裁かれなければならない人間が、そして私たちが裁かれることのない者とされたのです。このように、イエス様によって罪を赦され、救いに与り、神の子とされた私達は、37節のイエス様の教え、「人を裁くな。そうすればあなた方も裁かれることがない。・・・赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される」というご命令を、改めて読み直したとき、私達の過ちに気付きます。そこには、「はい、分かりました。お言葉どおりに致します。」と言えない私達自身を見出したのですが、それが誤りの元でした。私達は、私達自身の力でそれを成し遂げようと考えて、結局尻込みするしかなかったのです。然し、イエス様が十字架に架かり私達の罪を贖って下さった今は、違います。私達はイエス様の救いの内に入れられ、人を裁くことの無い、人を赦し人に与えることができる者にされているのです。「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい」「人を裁くな」という教えは、イエス様に救われ、生まれ変わった者が生きる、新しい生き方なのです。

次にイエス様は、譬え話を三つされました。全く異なるように思える、この三つの譬え話に共通していることがあります。それは、「心の目が、見えるかどうか」ということと、「裁いてはならない」ということです。

三つ目の譬えとして、イエス様は、おが屑と丸太の話を始められました。41節です。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故、自分の目にある丸太に気付かないのか」と言われました。そして、続けて、「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えるだろうか」と、言われています。
イエス様の譬え話は、全てに共通して、「心の目が見えるようになること」と、「人を裁くな」という教えが貫かれていました。「心の目が見えるようになること」つまり、「本当に見えるようになること」は、人を裁くことがなくなることなのです。しかし、そのためには心の目が見えるようにならなければなりません。そして、心の目が見えるようになるためには、自分の目の中にある丸太を、取り除かなければなりません。私たちの目を塞いで、神の義を見えなくしている丸太を、どうしたら、取り除けるでしょう。それは、私たちの力では、どうにもなりません。私たちの目を塞いでいる丸太は、罪そのものだからです。この罪を、私たちから消し去って下さるのは、ただ一人、イエス・キリストのみです。イエス様は、人間の罪のすべてを背負われて、十字架にかかって死んで下さいました。私たちの目を塞いでいた罪という丸太も、全て、イエス様の贖いの死によって、取り除いて下さったのです。



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