説教

2013年4月7日

エマオ途上の復活
土橋修


ルカに福音書 24章 13-35節



ルカによるこの物語は、不朽の名短編と言われています。構成の起承転結は明瞭。起(13〜)と結(33〜)は簡結。承(15〜)の部分は、物語の起りと経過の中で、弟子二人と行き連れになって現われたイエスとの話し合いが、発展するうち、主は彼らの「物分かりの悪さ」を厳しく叱責します。

「物分かりが悪く、心が鈍く、予言者たちの言ったことすべてが信じられない者たち」とは、今読む私たちにも、手きびしく心に響きます。イエスが聖書(旧約)に立ち返って、全体にわたり熱心に説かれ、喚起しておられる点は重大です。即ち「メシアは苦難を受けて、栄光に入るはず」であり、「聖書全体は、わたし(イエス御自身)について書かれているもの」という、この二点が問題だと言っておられるのです。

しかし、今この弟子二人に限らず、都エルサレムでも同様信徒らは、十字架とその苦難の意を観ることなく、徒らに期待の栄光が失われたことのみに関わっていることを、彼ら同様に私どもも深く悟るべきなのです。弟子二人のイエスに対する望みは、専ら「イスラエル民族の解放者」(21)としてでした。そうした民族的・栄光の輝きが失せたる十字架のイエスと、空しき墓を残して消息不明のイエスに、今、信徒たちはただ困惑のもとで行く道を失っているのです。

転(28〜)に入って、イエスは二人の招きに応じ、彼らの家での夕食につきます。ところが客人の彼がいつの間にか、食卓の主人公役を演じます。その様は忘れもしない「最後の晩餐」に二人の目は開かれ、客人は他ならぬイエスだと分かったのです。イエスの「パン裂き」がそれと分からせてくれたのです。

同時に彼らは、道々この方の語る聖書のことばが、その力が心の内に熱く燃えるのを覚えたのを思い出しました。それは彼らの心に神の言葉、即ちイエスの贖罪犠牲の愛の心が、刻み込まれた証にほかなりません。

ヨブ記の引用句に「鉄筆と鉛とをもって(私の言葉が)長く岩に刻みつけられるように。私は知る、私を贖う者は生きておられる・・・」とあります。旧約中最大の「苦難の人ヨブ」の言葉は、イエスの福音の予言とも受けとめられるのではないでしょうか。キリストの業は苦難の中に栄光の輝きを照らすのです。それが岩に刻み込まれるように、弟子たちの心にも刻み込まれました。私たちの心に果たしてキリストの業が、イエスの心が岩に刻み込まれるように刻まれ、火の燃え盛るように燃え続けているでしょうか。

結(33〜)は、「時を移さず出発してエルサレムに戻る」とあります。西に向かって都落ちした二人は、今や心燃やして立ち返るのです。二人の復活を明らかに見てとれます。復活のイエス発見は、見たその人を復活させます。都に帰った弟子二人は、今やペテロと共に「本当に主は復活した」と、堂々と喜びを込めて復活の証人とかえられ、今に伝わる名編となりました。





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