説教

2013年2月24日

わたしが選んだ
大坪章美


ヨハネによる福音書 15章 9-17節




イエス様と弟子たち一行は、エルサレムの、とある家の二階の広間で夕食を共にされました。最後の晩餐です。裏切り者のユダも、イエス様に促されて、家の外の夜の闇に消えた後のことです。イエス様は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」と言われています。イエス様の愛に留まっているための条件は、イエス様の掟を守ることであると仰っています。12節では、イエス様の愛に留まるための守るべき掟について、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と話されました。

次にイエス様は、私たちに下さった唯一の掟、「互いに愛し合いなさい」というご命令の具体的な内容を示されます。それが、13節に記されています、「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない」と、言われました。しかし、「兄弟のために」とは言え、「命を捨てる」とは、この上なく重い言葉です。確かに、これは、イエス様ご自身が、父なる神様の御旨を十字架上の最後に至るまで忠実に守られ、その愛の中に留まられたのと同じように、弟子たちもこれに倣って、イエス様の愛の掟を守り、その愛の中に留まることを求められていることを表しています。ただ、ここで用いられている「命を捨てる」と翻訳されている言葉は、「殉教の死を遂げる」とか、「兄弟の身代わりになって死ぬ」というような意味においてのみ理解される必要はありません。ここで、「命を捨てる」と翻訳された言葉の、「捨てる」の意味が注目されます。この、元の言葉には、「置く」、「差し出す」、「託する」などの意味があります。と、いうことは、「兄弟のために命を捨てる」という言葉は、「自分の命を、隣り人に捧げられたものとして、隣り人のために生きる」という意味を含んでいることが分かります。

そして、このような生き方をする者を、イエス様は、「わたしの友」と呼ばれます。イエス様が弟子たちを愛して下さり、弟子たちもイエス様の掟を守って、その愛に留まっています。この愛の関係は、対等でなければ成立しないのです。自由が無いところには愛は成立しません。父なる神様と御子イエス様との愛の関係に、弟子たちが応答するためには、“友”であることが必要であったのです。そして、更に、イエス様は、弟子たちを、また私たちを“友”と呼んで下さる関係を明確に宣言されます。16節です、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われました。そして、選んで下さった目的は、「あなたがたが出かけて行って、実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」なる為である、と約束されたのです。何という大きな恵み、何という大きな保証でしょう。弟子たちが、或いは私たちが、自分の意志でイエス様を選んだとすれば、また、何と頼りない信仰になってしまうことでしょう。弟子たちも、私たちも、弱い人間です。人生の荒波をまともに食らえば、「神様、何故なのですか?」と憤り、反抗し、挙句の果てには、「どうせ神様は、わたしのことなど、気にかけて下さらない」と自暴自棄になってしまいます。

しかし、人間の目から見れば危機のように見えても、危機ではありません。何故なら、イエス様は、「わたしがあなたがたを選んだ」と宣言されているからです。神様が選ばれたものは、挫折することがありません。神様が約束されたことはそのようになるのです。

この、神の選びと愛が、イスラエルの民に対して歌われたモーセの歌に出て来ます。申命記32章10節には、主なる神様が荒れ野をさまようイスラエルの民を見つけ、取り囲んで守り、ご自分のひとみを守るように守られたと記されています。
イスラエルの歴史は、神様がその民を、ご自分のひとみを守るように守られ、愛と慈しみのうちに導いて来られました。そして、イエス様も、弟子たちを、「わたしがあなたがたを選んだ」と言われました。イエス様が、私たちを選んで下さっているのです。そして、日々、救いの道を歩ませてくださっています。





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