説教

2013年2月3日

神は生きている者の神
大坪章美


ルカによる福音書 20章 27-40節



イエス様は、この日も、昨日に引き続いてエルサレム神殿の境内に入られ、民衆に福音を告げ知らせておられました。その時、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエス様に尋ねたと、ルカは記しています。サドカイ派の人々は、エルサレム神殿の祭司の家系を中心とした、裕福な上流階級に属していました。彼らは、祖先である祭司階級が編纂したというモーセ五書のみを正典と考えて、五書に記された律法だけにその権威を認めていたのです。従いまして、そこに書かれていない、人間の復活や死後の命の存在などの教理を否定していたのです。彼ら、サドカイ派の人々は、初代教会の復活信仰が広まって、自分達、サドカイ派の立場が危うくなることを恐れて、死者が復活するとの教えに激しく反対したのでした。

彼らサドカイ派の人々は「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」という、申命記25:5節以下に記された律法を持ち出します。このモーセの律法を前提にして、あり得ないことではありませんが、およそ現実的ではない事例を持ち出して、イエス様に質問するのです、29節以下です。7人の兄弟が、モーセの律法に基づいて1人の女性を妻とするが、誰ひとりも子どもを産まずに死んでしまい、そして最後に、その女性も死んでしまったとしたら、復活の時、その女性は7人の兄弟のうち、誰の妻になるのか、という難問を突き付けたのです。この、用意周到に練り上げられた難問に、イエス様はお答えになりました。34節以下です、「この世の子らは、娶ったり嫁いだりするが、次の世に入って、死者の中から復活するのにふさわしい、とされた人々は、娶ることも、嫁ぐこともない」と言われたのです。イエス様は、“この世”と“次の世”の違いを明確にされます。ふたつの世は、神と人間の距離と同じくらい、いわば無限の距離程かけ離れていると言われています。ですから、この世の論理を、次の世に持ち込むことが出来るという前提が、はじめから誤っているのです。男性も、女性も、神の前で、兄弟姉妹としての交わりを持って、天使たちのように神を賛美し、神に仕える時を過ごすのです。

次にイエス様は、サドカイ派の人々が肝を潰すような話をなさいました。37節です。「死者が復活することは、モーセも、『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたのです。イエス様は、この主なる神がモーセに語られた言葉こそ、死者が復活することの説明であると、仰るのです。そして、その理由を、38節で述べられました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と、言われたのです。イエス様は、彼らの霊が生きて眠りの中にあり、やがて終わりの日に復活させられるのを待っているのだと言われたのでした。

モーセが、柴の個所で聞いた、主なる神様の言葉、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という宣言通り、アブラハム、イサク、ヤコブの魂は、やがて来る終わりの時の復活を、待っているのです。まさに、イエス様が言われた通り、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。最後にルカは、この復活についての問答を、40節で締め括りました、「彼ら、サドカイ派の人々は、もはや何も、あえて尋ねようとはしなかった」と記しています。この世の生と、復活の生には明らかに断絶がありますが、しかし、連続性もあるのです。アブラハムは死んでも、なおアブラハムとして神に知られているのです。私達も終わりの日に、復活の生を生きる時、個性を保ちながら、神の前に、神の子として生きるのです。唯、私達は、体の復活と、永遠の生命を信じて、その希望の中に現在を生きれば良いのです。何故ならば、死人からの復活の初穂として、イエス様が復活を実現して下さり、聖霊がその保証を私達に与えて下さっているからです。今週も復活の生を生きるに相応しい歩みをしたいと願っています。




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