説教

2013年1月20日

新しい命の完成
大坪章美


コロサイの信徒への手紙 2章 1-3節




コロサイの信徒への手紙は、紀元62年頃に、パウロがローマの獄中から書き送ったものと言われています。そして、このコロサイの信徒達へ、イエス・キリストの福音を宣教したのは、実はパウロ自身ではなく、パウロの弟子のひとりであるエパフラスでありました。そのことは、パウロが1:7節に、「あなたがたは、この福音をわたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」と記していることから分かります。パウロは、エパフラスから聞くことによって、コロサイの信徒たちのことが分かったのでした。そして、その中でパウロは、コロサイの信徒たちがエパフラスから学んだ福音理解にとって脅威となるような、偽りの教えによって毒されていることを知ったのです。

パウロが、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」と非難していますのは、異端の教師たちのことを指しています。異端の教師たちは、哲学者と呼ばれておりますが、彼ら、哲学者は、理性的認識によって世界の本質を解明する考え方ではなくて、単なる“悟り”によって、世界の本質に近づこうとします。彼らは教会に属していて、自分たちの知識、即ちグノーシスによって信仰を理解しようと考えます。彼らは、宇宙を神の体として崇拝し、此の世の霊の力、即ち天体や諸元素をキリストの手足として崇拝する時にはじめて、キリストは正しく崇拝されると主張したのでした。これに対し、2:20節で、パウロは「あなた方は、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、何故、世に属しているかのように生きるのですか」と、コロサイの信徒たちへ問いかけています。「あなたがたは、キリストと共に死んだのなら」という言葉の意味は、「あなたがたは、洗礼を受けることによって、霊的に生まれ変わり、既に自由な身になっているではないか」と、教えています。洗礼を受けることによって、キリストと共に死んだ、ということは、此の世に死に、罪に死んで、此の世を支配する霊の威力から、既に自由になっているではないかと言っているのです。
そしてパウロは、3:1節で、この、「霊によって生まれ変わった」ということを、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」という命令で示しています。「霊によって生まれ変わった」ということは、新しい命が与えられ、キリスト者の望みは、キリストの居ます所を目指して、この地上を歩むのです。このことは、コロサイの信徒たちに限るものではありません。既に洗礼を受けて、この21世紀の現代に生きている私達にとっても、パウロは語りかけているのです。復活のキリストにあるキリスト者の生き方は、向かうべき関心は、どこにあるのかを語ろうとしているのです。それは真の意味で、“上にあるもの”、“神の右に座しておられる復活の主、イエス・キリストのご支配”に外ならないのです。
パウロが勧告しているコロサイの信徒達も、そして、今の私達キリスト者も、洗礼によって生まれ変わり、新しい命に生きているのです。

私達は今、与えられた日々を新しく、復活の主イエス・キリストに心を向けて、歩んでいくことが求められています。パウロは、「あなた方は、キリストと共に死んだ」と記していますが、キリストにおいて、此の世に死んだのです。その結果、地上の如何なるものにも支配されることは無くなりました。そして新しい形で、命の源を神のうちに隠されて、保っているのです。

此の世から、自由になっただけ、豊かに、神のもとでの命の保証がなされているのです。自分という地上に生きる現実存在が、天上における主イエス・キリストとの空間的差異の中に、生き続けるのです。そして、私たちの復活の命は、終末におけるキリストの再臨においてのみ、その完成を見るのです。イエス様の復活は、歴史と時間の中に現れました。しかし、その復活は、部分に過ぎませんでした。

キリストの再臨は、その全体の完成なのです。その時のことをパウロは、「あなたがたも、キリストと共に、栄光に包まれて現われるでしょう」と預言しています。




前のページへ戻る