説教

2012年11月4日

神を誇る
大坪章美


ローマの信徒への手紙 5章 1-11節



パウロは、未だ見ぬローマの信徒たちへ、手紙を書き送っています。冒頭に、「このように」と言っておりますのは、直前4章の、終わりの部分の考えを指しています。パウロは、アブラハムが死者に命を与える神を信じて義とされたことと、私たちがイエス様を死人の中から復活させられた神を信じて義とされていることは、同じことなのだと、言っているのです。更にパウロは、2節の初めに、「このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています」と記しています。イエス・キリストが、死と復活の事実を通して、私たち人間と神との中を仲介して下さったことによって、今、わたしたちが立っている恵みの座に導き入れられたのです。そして、「神の栄光に与る希望」とは、未だ、私たちには与えられてはいない栄光、言い換えますと、神の永遠の命を受け継ぐことが、来るべき将来の時に許される、という保証を頂いたことを意味しています。

“誇り”とは、困難な状況の只中で、なおも毅然として生きるための拠り所です。然し、“誇り”は、神の側からもたらされるのです。私たちキリスト者が誇りにしている“希望”は、終末の時の栄光に与る希望であります。しかし、来るべき将来に、神の栄光に与るという希望が、現実のキリスト者の生活を栄光の輝きで満たしてくれているか、と言いますと、パウロは、否定しています。今は、暗黒に包まれたままではないか、と言っています。ただ、苦しみは、私たちの希望を危うくするどころか、かえってそれを、強くするのです。圧迫が増せば、耐久力も増してきます。ですから、パウロは記しています、3節です、「苦難をも誇りとします」と、言っています。苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、ということを私たちは知っていると、言っています。パウロは、苦難から希望に至る行程を明らかにするのです。この行程は、一点の狂いもなく、着実に、苦難の中から、栄光の希望へと到達すると言うのです。そして、このように、希望と栄光への行程に入れられるのは誰かと申しますと、“信仰によって義とされた者”、つまり、私たちキリスト者の生き様であると、語っているのです。5節の冒頭で「この希望は、わたしたちを欺くことがありません」と言っています。具体的には何のことを言っているかと申しますと、6節で、「キリストは、わたしたちがまだ弱かった頃、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」と言っている通りなのです。

パウロは、あらためてこの神の愛の驚くべき深さについて語ります。正しい人のためでさえも死ぬ者はいないでしょう。ひょっとしたら、善行を施す、情け深い人のためなら命を捨てる者が居るかも知れません。しかし、自分に反抗し、背き、考えを改めようとしない人のために、命を差し出す者が居るだろうか、と言っているのです。人間であれば、決して自分の命を差し出す事など考えられない、自分に対し反抗し、罪を犯し続ける者のために、神様は、御子イエス・キリストを死なせられたのでした。この神様の愛は、既にイエス・キリストの贖いの血によって“義”とされた私達を、やがて来るべき終末の日に下される神の裁きに対しても、イエス・キリストの執り成しによって救って下さらないことがあり得ましょうかと言っています。

これら、救いの約束、神の恵みを頂いた唯一の源、歴史の転換点が何処にあったのか、と申しますと、神様の“愛の計画”でした。神ご自身に逆らい、敵対して、恐ろしい罪を重ねていた人間を、神様は、御子イエス・キリストの命を代償にして、和解し、平和の関係を築く、という愛を示されたのが発端でした。

人間の頭では考えられないことでした。でも、それは起きたのです。イエス様は、「汝の敵を愛せよ」と教えて下さいました。私たちにとっては、不可能と思われる教えです。しかし、主なる神様は、既にそれを実行されていたのです。ご自身に背き、敵対する人間を愛し、救いの約束を下さったのです。

私たちは、この幾重にも用意された神様の愛に包まれて、恐れも不安もなく、歩むことが出来るのです。



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