説教

2012年10月21日

自分を吟味する
大坪章美


コリントの信徒への手紙二 13章 1-7節



コリントの信徒への手紙二は、紀元55年の秋、マケドニアで書かれました。パウロはこの手紙を書いて、愛弟子テトスに持たせ、コリントの信徒のもとへ届けさせたのでした。そして、これから、3度目に、あなた方を訪問するのだ、と言っています。1度目の訪問は、第2回伝道旅行の折りで、その時には1年半もの間、コリントに滞在し、ユダヤ人とギリシャ人などの異邦人から成る信徒の教会を建てたのでした。2度目の訪問は、第3回伝道旅行中のことでしたが、悲しい結果に終わった訪問でした。パウロを悲しませる原因になった人が居たのです。2:5節に、「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなた方すべてを、ある程度、悲しませたのです。」と記しています。

そしてパウロは、その時のことについて、「以前、罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの2度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今も、あらかじめ言っておきます」と、警告しているのです。その時に、何を言ったのかと申しますと、「今度そちらに行ったら、容赦しません。何故なら、あなたがたは、キリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです」と言っています。パウロは、2度目の滞在中に、コリントの信徒のある人から受けた屈辱を、忘れていないのです。その、ある人は、パウロが福音を語る資格があるかどうかを、イエス・キリストがパウロの口を通して語られているかどうか、という基準で判断して、パウロには、その資格が無いと、判断したものと思われます。パウロは、不従順な者たちに対して、主イエスがパウロの口を通して語られていることを明らかにするのです。「キリストは、あなた方に対して弱い方ではなく、あなた方の間で、強い方です」と、言っています。

そして、4節で、キリストの強さの根拠を明らかにいたします、「キリストは、弱さの故に十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」と記しています。パウロは、自分の弱さと強さを語るときに、自分もまた、イエス様と同じ姿の者にされたのだと、言っています。キリストは弱く、それ故に十字架に架けられましたが、然し、神の力はイエス様を生かし、今や復活させた強い方ではないか、と言っています。でありますから、イエス・キリストもパウロを通して行動され、イエス・キリストの命がパウロの中に、パウロの言葉に現れるのです。

コリントの信徒のうちのある者たちが、「イエス・キリストは、パウロの口を通して福音を語っていない」と非難したのは、彼ら自身が、グノーシス主義者に共通の傲慢さを、身に着けていたからに他なりません。

パウロは、パウロを福音の語り手として認めようとしないグノーシス主義者と、共通の傲慢さを身につけた者たちに問いかけるのです。「信仰を持って生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい」と記しています。そして、再び、パウロの心の底にこびりついた、コリントの信徒たちから投げられた疑惑、「イエス・キリストは、パウロの口を通して語っておられない」という批判が、パウロの意識に昇って来るのです。パウロは、「わたしたちが失格者でないことを、あなた方が知るようにと願っています」と記しています。終わりに、パウロは、自分の願いを、祈りとして表現しています。7節です、「わたしたちは、あなた方が、どんな悪も行わないように、と神に祈っています」と記しています。ここには、パウロの本音が現れています。パウロは、自分の使徒としての働きや、福音の正統性が証明されることを求めて来ましたが、本音では、それらは二の次だったのです。最も願っていましたのは、コリントの信徒の集会が、どんな悪をも行わないようにと、祈ることでありました。

私たち、現代のキリスト者は、初代教会の使徒たちの熱い祈りに支えられて、信仰を継承しています。私たちも、自らを吟味し、イエス・キリストとの交わりの中に入れられている幸いを感謝しつつ、今週も歩みたいと思います。




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