説教

2012年10月14日

信心は利得の道
大坪章美


テモテへの手紙 第16章 3-10節



パウロがこの手紙を愛弟子テモテに書き送った目的は、異端の教えに対する警告を伝えるためでした。異端の教えとは、グノーシス主義者である偽教師が主張する教えのことです。これらの偽教師たちと、どのように戦っていたかと申しますと、ひとつには、1:3節以下で、「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように、と」と、記していることから分かります。更にパウロは、4:1節以下でも、偽教師たちの、異端の教えとの対決について記しています。パウロは、聖霊が、次のように預言していると記します、「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者が居ます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって惹き起こされるのです」と言うのです。

そして、6:3節以下が、3度目の異端の教師との対決の言葉です。パウロは、この個所で、異端の教師たちが教会から離れて行った、最も深い理由を挙げています。それは、彼らが、「それだけが心の内から健全にして下さるイエス・キリストの御言葉から離れてしまって、教会の教えから身を引いてしまったからである」と指摘しています。このような、神に背く行為を、異端の教師たちは、“より高い洞察に基づくのだ”と、いつの時代にも思い込んでいるのですが、実際には、“高慢”によるものだ、とパウロは言っています。
彼らの高慢は、自らの考えに対する病的な執着として現われるのです。この自己への執着が、あらゆる交わりを破壊します。何故ならば、異端の教師たちの高慢さは、彼らの理性をくらまして、神の永遠の真理から遠ざけてしまうからです。パウロが5節で、「これらは精神が腐り、真理に背を向け信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」と言っているとおりです。

高慢さが理性をくらまして、異端の教師たちを、神の永遠の真理から遠ざけてしまいますと、行き着くところは、“宗教を売り物にするほど、目をくらまされてしまう”ことになるのです。パウロは、このように、「信心を利得の道と考えて、実践する罪」を、極めて厳しく指摘しています。これらの異端の教師たちが、このようにして、“神様を罪に仕えさせている”のであって、これが最悪の事態なのだ、と憤っているのです。

パウロは「神様をして、罪に仕えさせる行為だ」と言う程、激しく非難したのです。異端の教師達が、敬虔な信仰者の信仰心を利用して、金儲けに走ったことを、「神様に、罪を犯させた」と言って憤ったのです。

しかし、それが一転して、6節では、「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」と、聞きようによっては異端の教師たちの肩を持つとも思われるようなことを言っているのです。でも、良く見てみると、決して、異端の教師たちと同じことにはなりません。「信心が大きな利得の道」になるのには、ある条件が加わっているのです。その条件と申しますのが、「満ち足りることを知る者にとって」と言うことです。パウロは、「満ち足りることを知る者にとってのみ、信心は自ずから大きな利得の手段になる」と言っているのです。確かに、信心は、真の利得への確実な道なのです。それは、このテモテ?書の4:8節で、パウロが言っていることからも分かります。そこには、「信心は、この世と、来るべき世での命を約束するので、全ての点で益となるからです」と記されています。信仰を持つ者の人生は、神様の祝福に満ちた御手の内に置かれているからなのです。しかし、この場合にも、この信仰者が、“満ち足りることを知っている者である”ときにのみ、あてはまるのです。

箴言の作者は、申しました、「稼ぎが多くても正義に反するよりは、僅かなもので恵みの業をする方が幸い」。パウロも、テモテに書き送りました、「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」。私達は、神の憐れみと選びによって、イエス様を主と告白し、洗礼を授けられた者です。私たちが、“満ち足りることを知る”生活をすれば、とりもなおさず、大きな利得の道を歩むことになる、とパウロは勧めているのです。




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