説教

2012年9月2日

神の愛
大坪章美


ヨハネの手紙一 4章7-16a節



ヨハネの手紙第一は、紀元百年前後に、小アジア、今のトルコの西の端、当時はアジア州の首都でありましたエフェソ、あるいはその周辺で書かれました。 

この、手紙が書かれた目的は、手紙の読者たちが、信仰と兄弟愛を強めることによって、彼ら自身を神との交わりの確かさの中にあって固く立たせ、グノーシス主義者のような異端の教師の脅威から、防ぎ、守ることにあったのです。

著者ヨハネは、7節で、「愛する者たち、互いに愛しましょう」と呼びかけています。著者ヨハネがここで言っています“愛”は、教会や集会を前提としています。キリスト者の共同体を支える愛は、人間が自ら生み出すことの出来る愛とは別のものです。従って、神に倣って愛を行う者は皆、神から生まれた者なのです。

神様の愛は、全く例を見ない、歴史上の出来事として現されました。確かに、キリスト以前の旧約の時代にも、神の愛の現れが無かったわけではありません。しかし、神の愛が、完全な仕方で、明らかにされたのは、「神が、御子を世に遣わされたこと」この一事以外にはありません。それは、完全に私心、わたくしごころの無い、かつ、犠牲を厭わない愛でした。何故ならば、主なる神様は、その御ひとり子を、犠牲とされたからなのです。そして、神が、その御ひとり子を人間の世に遣わされた意図が、9節の終わりに記されています。「その方によって、わたしたちが生きるようになるため」と言っています。神様の御ひとり子は、父からお受けになった神の命を、さらに、私たち信じる者にお与えになるのです。それが、永遠の命、著者ヨハネが言う、イエス・キリストの救いの賜物なのです。

そしてヨハネは、御ひとり子を犠牲にしてまで人間を救おうという行為によって示された、人間への神の愛を目の当たりにした人間が取るべき行動について語り始めるのです。「神が、このようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と勧めています。そして、このように、人間の想像力を遥かに超えた大きな神の愛を経験した者は、他の人たちに、その愛を及ぼし、与える義務があると言っています。義務とは言っても、それは、結局、自分のためなのです。何故ならば、他の人たちに愛を及ぼす者は、それによって、神様とその愛を共にすることが出来るからなのです。ヨハネは、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」と言っています。私たちが互いに愛し合う限りにおいて、神様は私たちのうちに留まってくださいます。神様は、私たちが愛するときに初めて、わたしたちに近づき易くなるのです。神様は、ご自身が愛であられますから、私たちが他の人々に愛の心をもって接する時に、神様と愛を共有するのです。そして、大切なことは、神様が私たちの内に留まってくださる、ということです。どういう時に、神様が私たちの内に留まってくださるか、と申しますと、「わたしたちが互いに愛し合う時」なのです。この時に、神様は、私たちの神様に対する愛を完成させてくださるのです。しかし、神が、私たちの内に留まり、また、私たちが神の内に留まっていることを、一体何によって、私たち人間は知ることができるのでしょうか。ヨハネは、その答えを、13節に記しています、「神は、わたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから」分かると言っています。つまり、神様がわたしたちに賜った聖霊によって分かるのだ、と言っています。

わたしたちの信仰が生きていることを証明するのは、愛の実践です。真の愛は、神との交わりの中にのみ、生まれます。何故なら、神様の本質が、愛だからです。主なる神様の愛は、全人類を対象としています。しかし、残念なことに、神の愛を経験できるのは、主イエスをキリストと告白している人々だけなのです。そして、愛は、その人が、神から生まれた人であることを証ししているのです。今週も、神の愛の内に置かれていることを感謝しつつ、神の愛を証しする歩みを続けることが出来ますよう願うのです。





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