説教

2012年5月6日

試練の先にあるもの
大坪章美


ペトロの手紙I1章3−9節


イザヤは、主なる神がイスラエルの民に対して語り かける言葉を伝えてきましたが、それは一貫して、イスラエルの民に自信を取り戻すように促す言葉でした。異教の国バビロンに、70年も強制移住させられ、バビロンの宗教、文化に取り込まれそうになる捕囚の民に向かって、イスラエルの唯一の神ヤハウェの偉大さを説き続けてきたのでした。40:30でイザヤは語ります、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、」と、実際にバビロンで暮らしている自分の目の前のイスラエルの民の様子を語っています。60年も70年も故国ユダを離れ、異教の国で不自由な生活を強いられ、もう、精も根も尽き果てた、まさに、疲れた者、無気力な者の群が、この捕囚の民でした。主なる神は、このご自分の民に慰めの言葉をかけられるのです、「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と、イザヤは預言します。「主に望みを置く人」、「このような人は、新たな力を得る」と言われるのです。そして、この預言は、直ぐに実現します。この後、バビロンは、新興国ペルシャに滅ぼされ、紀元前538年、ペルシャのキュロス大王は、捕囚のイスラエルの民に、故郷エルサレムへの帰還を許したのでした。

この時からおよそ六百年も後のこと、紀元63年頃のローマで、使徒ペトロは、今のトルコにあたります小アジアの各州にありました教会宛に手紙を書いていました。3節でペトロは、「わたしたちの主、イエスキリストの父である神が誉め讃えられますように」と祈っています。ペトロは、主なる神様の憐れみによって、人間に救いが与えられたことを思い、神を賛美しているのです。御子イエス・キリストの復活という出来事によって、人間に、永遠の命に至る道が開かれたのです。これは、単なる人間の想像や、希望的観測ではありません。“キリストの復活”という神様が提示された事実に基づくものだからです。そして、この復活は、私たち信じる者自身も、やがて甦り、永遠の命と、未来の栄光に与る者になることを保証するものなのです。3節には、「イエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださり」と記されています。ペトロは、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と言っています。私たちは、イエス・キリストを信じ、告白し、洗礼を授けられました。それによって、新たに生まれさせられたのです。そうであれば、生まれさせられる前と、生まれさせられた後とでは、本質的に異なったところが無ければ理屈に合いません。私たちは、何処が新しくされたのでしょうか。・・それは、“永遠に生きる希望”が与えられたことです。以前の私たちは、地上の生を終えると全てが終わりました。地上でどれほど大きな希望を持っていたとしても、死ぬことにより全てが終わっていました。

私たちキリスト者には、“永遠の命”が与えられており、いつまでも望みが無くなることはありません。ペトロが、「それ故、あなたがたは、心から喜んでいるのです」と記しているとおりです。然し、ペトロは続いて、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければならないかも知れませんが、」と注意を促しています。当然、キリスト者にも、この世の苦しみや、困難は現れてくることでしょう。忍耐が求められる時もあるでしょう。然し、基本的には、キリスト者は、このような試みには勝利するのです。なぜならば、これらの試みには意味があることだからです。ペトロは、決してこれらの試みを、“困難”や“苦難”とは表現していないのです。一貫して、“試練”と言っています。“試練”は、困難や苦難のように、先の見えない戦いではありません。既に神のご支配のもとに生きるキリスト者の訓練の場であるからなのです。この試練によって、キリスト者の信仰は本物と証明されると、ペトロは言っています。そして、今私たちは、このペトロが言う“試練”を、イスラエルの民も経験していたことに思い至ります。主なる神ヤハウェが異教徒の王ネブカドネツァルを用いて行ったバビロン捕囚も、新しいイスラエルを復興する為の、神の試練に他ならなかったのです。



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