説教

2012年4月8日

眠った者の初穂
大坪章美


コリントの信徒への手紙一 15章20-28節



イザヤは、53章1節で語ります、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」と言っています。「わたしたちの聞いたこと」とは、何を指すかと申しますと、直前の52章13節から15節で語られたことなのです。そこに記されているのは、神様の言葉でした。「神の僕は栄え、はるかに高く上げられて、崇められる」と言われているのです。続いて主なる神様は語られます、「かつて、多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の体は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と言われました。主なる神は、この神の僕が、はるかに高く上げられ、崇められると、仰るのです。そのようなことは、前代未聞のことだ、と人々は言います。53章1節にありました、「わたしたちの聞いたこと」とは、このことを指しているのです。この信じられないことが起こったこと、打たれ、損なわれ、侮られ、見る影もなく変わり果てた人が、高く上げられたこと。この人にこそ、主の御腕は現れたのだ、とイザヤは語っているのです。そしてイザヤは、続く2節以下で、この信じられないと言われた神の僕の生涯について語り始めます。神の僕は、渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、主の前に育ったというのです。ですから、貧弱で見栄えも悪く、神様の祝福も、少しも無かったのです。この僕は、軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負って、病に苦しんだのです。人との交わりも断たれ、軽蔑され、無視されたのでした。しかし、驚くべきことに、4節に至って、この僕を取り巻く人々の態度が突然、全く変わるのです。と、申しますのは、人々は、自分たちの間違いに気付いたのです。4節後半で、その間違いを告白しています、「わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」と。人々は、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」と告白しています。8節では、苦難の僕が捕らえられ、裁きを受けて命を取られたと記されています。この僕がこのように打ち砕かれるのを主は望まれた、とイザヤは語っています。そして続いて、「この僕は、自らを償いの献げものとした」と記されています。まさに、この時この瞬間に、事態は180度転回するのです。なんと、「その僕は、子孫が末永く続くのを見ることが出来、主の望まれることはこの僕の手によって成し遂げられる」との預言がなされたのです。

イザヤが、苦難の僕の死について預言をしてから、およそ六百年の時が流れました。使徒パウロは、エフェソで、コリントの信徒達へ手紙を書いていました。パウロは、コリントの信徒たちに向けて、“死者の復活”について書き記していたのです。パウロは、20節で、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました」と宣言しています。そしてイエス・キリストの復活を、神学的に解き明かします。21節です、「死が、一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と言っています。「キリストは、すべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」と言っています。これらの強力な敵の中でも、最後で最強のもの、そして古い世の運命を一手に握っているのが、“死”でした。パウロは、イエス・キリストが、この最後の敵である“死”を滅ぼした、と宣言しています。その根拠は27節、「神は、全てをその足の下に服従させたからです」と言っているとおりです。そして遂には、御子ご自身も神に服従されると記しています。「神が全てにおいて、全てとなられるためである」と述べています。このように御子イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために死んで下さり、三日目に死を滅ぼして、復活のお姿を現されました。そしてやがて来る再臨の時には、私達、主を信じる者は一人残らず、生きている者はそのまま、死んで眠っている者は甦らされて、神の国に入るのです。まさにイザヤが預言した苦難の僕は、六百年後のイエス様を指し示すものでした。イースターの今朝、復活なさったイエス様を、私達も共に喜びたいと思います。



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