説教

2012年1月15日

全世界より大切なもの
大坪章美


マルコによる福音書 8章31-38節


預言者イザヤが活動を開始したのは、南王国ユダの10代目の王ウジヤが亡くなった紀元前742年でした。その時代の南王国ユダには、社会と経済に大きな変革が現れていました。ウジヤ王が生きていた頃の外交政策が功を奏して、この国には大量の現金が流れ込んで来たのです。こうして、それまでの自然経済から貨幣経済に移って行ったために、都市には富裕な市民が現れ、大土地所有者へと発展して行ったのでした。預言者イザヤは、現金を手にした成金たちが手に入れた敷地に、次々と豪邸を建て、現金を持たない農民たちは、自分たちの農地を次々と買い占められ、ついに、奴隷に落ちてゆくのを目の当たりにします。貧しい者と、富める者との間に、深い溝が口を開け、その溝の中に、貧しい者たちが沈み込んでゆくといった危機にさらされていました。このように、律法で定められた、土地売却の禁止という、イスラエルの民と主なる神との契約が、人間の側から破棄されて、主なる神の裁きを招かない筈がありません。イザヤは9節で、主なる神の言葉を述べています、「この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて、住む者が居なくなる」と記されています。少数の大土地所有者が手に入れた、倫理的に正当でない財産は祝福されない結果となるのです。人間と自然との主である神様は、これらのことを配慮なさるであろうとのイザヤの預言なのであります。

この主なる神ヤハウェがイザヤの口を通して警告された預言の言葉と同じような言葉を、イエス様が語っておられることに、私たちは気づきます。それは、マルコによる福音書8:36節です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と警告されているのです。34節に、イエス様は、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記されております。イエス様が、次にお話しになることは、ただ単に、弟子たちだけに対するものではなかったのです。弟子たちだけでなく、イエス様に従う群衆たち、そして私たちも、この群衆の中の一人として呼び寄せられているのです。そして、イエス様が仰ったお言葉は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というものでした。イエス様は、私たちに、“自分を否定すること”は要求されますが、それだけでいい、とは仰いません。イエス様は、「自分を否定して、わたしに従いなさい」と仰っているのです。そこに、救いの道が、勝利の道が用意されているのです。自己否定そのものが、「自分の十字架」なのです。“自己否定”ということは、自分自身からの自由、つまり、自分の地上の財産へのこだわり、或いは、地位・名誉へのこだわり、など、この世を尺度にしたものからの“自由”なのです。「自分の十字架を背負って」というのは、「自分の肉なるものを十字架につけて」という意味なのです。そして、「わたしに従いなさい」ということでした。正確には、「イエス様の召しに従う」ということです。あくまでも、自分が主体的について行く、のではなくて、“主イエスの召し”が、先に存在しているのです。こうして、イエス様に従う者には価値の転換が起きるのです。プラスと思っていたものがマイナスになり、マイナスと思っていたものがプラスになるのです。聖書では、二つの命が語られています。今の、地上の命と、来るべき神の国での命です。そしてそれを貫いているのが、永遠の命なのです。大切なのは、自分に執着することから自由になり、イエス様に従って行くということなのです。イエス様に従って行く者には、永遠の生命が与えられているのです。その生命はすでに神様のものになっていて、地上の死を通過する時にも、神様がその味方となって下さるのですから、死によって、断絶することもないのです。イエス様は、来るべき神の国での生命の大切さ、地上的な生命とは比較にならない大切さを教えて下さいます。たとえ、全世界を手に入れたとしても、神の国が完成する時、自分の命を失うならば、何の得があるのか、と指摘されるのです。私たちも、自分への執着を失くし、肉的なものを十字架につけてイエス様にお従いする者となりたいのです。



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