説教

2012年1月1日

光が闇夜に輝く
土橋修


ヨハネによる福音書 1章1-5節


年末主日に降誕祭を祝い、年頭主日は主の割礼と命名日を祝日とする今回の越年は、まことに幸いな年末・年始となりました。「去年・今年 貫く棒の如きもの」(高浜虚子)の「貫く棒」は、キリスト者にとってはイエスへの信仰にほかなりません。主のことばにも「わたしは最初の者にして、最後の者。今生きている者」(黙示録1:17−18)とあります。その意味をこめて、新年明けましておめでとうございます。

本日の聖書テキストは、両者同一のメッセ−ジを告げています。冒頭の「初め」は、「始め」とは異なります。後者は時間的な動詞ですが、前者は事態のはじめの様子・状態の表現です。天地創造に先立つそこに、見えざる神は既におられるのです。かくて天地創造が始まり、地の様は「混沌」と表現されました。

「混沌」は水湧き立ち、分別つかぬ状況を指し、前訳「形なく、むなしく」に対応します。同じ混沌がイザヤ書(34:11)では「荒廃と瓦礫(ガレキ)の山」と訳された英語聖書があり、東北大震災時の様子が重なりました。又ある俳人の句中で「混沌」を、「混沌混・沌混沌」と繰り返し、その意の深さを教えています。この状況下に、「光あれ」と神の力強く鋭い声が響きます。この光は被造物の一つ、人間による物理的光でもありません。それはあくまでも「神の心の思い・意志」を表現するものです。「眼は口ほどにものを言い」と言いますが、声としてのことばに止まらず、若し見えたとするなら、それは神の眼の中に見える、慈愛と権威の輝きだったかも知れません。この光によって暗闇との区分が引かれ、第一日が生まれました。混沌から秩序ある新世界が創造されて行くのを、私たちは喜びと希望をもって見守るのです。創造の業は「初めに神ありき」を大前提にはじまりました。日本語訳最初のギュツラフ訳聖書も味わい深い訳を次のようにしています。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラクトモニゴザル」(1:1)と。

初めに、創世記とヨハネは共に、同じメッセ−ジを伝えると申しましたが、ヨハネが相違する唯一のものは、暗闇に挑戦する神の光を、御子イエスとして世に紹介することにありました。ヘブライ人への手紙1:1−2が繋ぐことばは、即ち旧約は預言者により、終りの時はイエスをもって、神のことばを引き継がれたと語るのです。ヨハネはこのイエスを「言は肉体となってわたしたちの間に宿った」(3:14)と告げます。神の顕現(マニフェスト)は、正にイエスの降誕と十字架と復活の中に、輝く光となって顕われたのです。この光は旧約の歴史の中で、長く暗闇と対抗し戦って来ましたが、今やイエスへの信仰がこの暗闇を打ち破って、暗闇にある者を開放し光の世界へ導き給うのです。まことにこのイエス・キリストへの信仰告白が、暗闇を貫く光の棒となるのです。

私の受洗は1941年のクリスマスでした。70周年となります。この年のはじめ剣道の寒稽古でカゼをひき、胸の病いとなりました。偶々小学校終りに母の死に会い、二度目の母が持参して来た聖書を手に、私は、はじめて教会に飛び込みました。青春の悩みは深くはありましたが、短い月日のうちに終わりました。キリストへの信仰が癒して下さったのです。翌年繰上げ卒業、陸軍入隊はしましたが、数ヶ月で病気再発、陸軍病院送り、そして間もなく現役免除。就職・上京転勤等あわただしい中に、心中期していた献身が実現。戦時最中の神学校も繰上げ卒業で、終戦直後9月牧会に送り出されました。現役牧会半世紀。隠退し現在90歳。顧みれば多事多難、その中にも神の摂理の恵み豊かさに深い感謝を覚えます。好きな花は「ねじ花」。細い茎一本が螺旋状にねじれて伸び、それに淡紅色の小花がびっしり咲き揃うのは、ねじれよじれの苦難の道にも、神は恵みの花を添え祝し給うかのように見えるからです。主にある者皆に、暗闇に光を注ぐ主の栄光永遠にあれ。



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