説教

2011年11月27日

新しい掟
大坪章美


ヨハネによる福音書 16章9-17節


出エジプト記19:1節は、イスラエルの人々が、エジプトの国を出て三か月目のその日に、シナイの荒野に到着したことを告げています。3節を見ますと、「モーセが神のもとに登って行った」と記されています。そうすると、主なる神がモーセに語りかけて言われたのです、「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを」と仰ったのです。そして更には、5節で記されていますように、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と、預言されたのであります。これに優る喜びがあるでしょうか。しかし、このように、神様の“宝の民”となるには、条件がありました。「わたしの契約を守るならば」と仰っているのです。“わたしの契約”とは、この後、神様とイスラエルの民の間で結ばれた“十戒”であります。その後の旧約の歴史を見れば分かりますとおり、神様の愛の啓示にも係わらず、イスラエルの民は、神様との契約であった“十戒”に背き続けてきたのでした。

主なる神がイスラエルの民を愛し、慈しまれたように、イエス様も、弟子達とご自分に従う者を愛されました。ヨハネによる福音書15:9節には、イエス様が、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」と仰ったことが記されています。“イエス様の愛に留まる”ということは、“イエス様の掟を守ること”であると教えて下さっているのです。そして、イエス様の掟の意味を、12節で語っておられます、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と仰ったのです。次にイエス様は、私達信徒のことを、“友”と呼ぶという話を始められます。イエス様が、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と仰ったのは、とりもなおさず、「わたしの命じることを行う者の罪は、わたしが赦し、その者をわたしが贖う」と言われているのです。罪を赦された者達は、皆、イエス様の“友”となるのです。このように、弟子達は、イエス様から、“わたしの友”と呼ばれるようになりました。そして、兄弟姉妹同志が、また、イエス様との間で、互いに愛し合うことができるようにされました。然し、ここで、イエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と仰っています。同じ“友人”であるとは言え、その基本は、イエス様が、一方的に選んで下さったことによる友人関係なのです。そして、イエス様が一方的に選んで下さったのには、二つの理由がありました。一つ目は、「弟子たちが出かけて行って、実を結び、その実が残るため」でした。イエス様が、弟子達を、また私達を一方的に選んで下さり、“友人”と呼んで下さるのは、弟子達が、私達が、“豊かに実を結ぶ”ためなのです。そして、二つ目の理由は、「わたしの名によって、父に願うものは、何でも与えられるように」なのです。イエス様は、“私達が祈ることは、何でも叶えられるように、”私達を選び、友人として下さっているのです。モーセに率いられて、エジプトからの脱出を図ったイスラエルの民も、主なる神様から選ばれた民でした。そして、守るべき神様との契約は、石の板に刻まれた十戒でしたが、イスラエルの民はこの契約に、幾世代もの間、背き続けて来たのでした。イエス様は、弟子達を、そして私達を、一方的に選んだと言われます。そして、「わたしの愛に留まりなさい。わたしの掟をまもるなら、あなたがたは、わたしの愛に留まっている」と仰いました。これが、“新しい掟”なのです。そして、それは、「互いに愛し合いなさい」というイエス様のご命令なのです。このご命令が果たされるように、イエス様は、弟子達を、そして私達を、“友”とまで呼んで下さり、自由を与えて下さっているのです。イエス様は、弟子たちの為に、私達の為に、幾重にも愛を示して下さっています。



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