説教

2011年11月13日

まず立ち帰りなさい
大坪章美


フィリピの信徒への手紙 4章15-20節


預言者マラキは3:6節で、ユダヤ教団に対する神の言葉を語っています、「まことに、主であるわたしは変わることがない」と預言しています。この言葉は、主なる神が、ユダヤ教団から非難を受けたことに対する回答でした。教団の、神に対する非難とは、「主なる神は、イスラエルを愛する気持ちを変えてしまわれたのか?」という疑いでした。あるいは、「主なる神は、イスラエルを救おうというご計画を変更してしまわれたのか?」という疑問でした。何故ならば、イスラエルの民にとっては、約束のメシアは未だに現れず、その上、不幸や災難ばかりを民の上にもたらしておられるようにしか見えなかったからなのです。この非難に対する主なる神のお答えが、「主なるわたしは変わることがない。それなのに、あなた方も、ヤコブの子らであることを止めなかった」と、逆に、神様がイスラエルの民を非難しておられるのです。そして、主なる神は、イスラエルの民、すなわちヤコブの子らの欺きの罪を明らかにされるのです。7節で、「あなたたちは、先祖の時代からわたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに」と命令されています。主なる神は、このようにヤコブの子らの欺きの罪をはっきりと指摘された後で、「立ち帰れ、わたしに」と命令されるのです。続いて仰ったのが、「そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」というお約束でした。そして、主なる神様は、約束の御言葉を述べられます、それが10節です、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ」と、主なる神への立ち帰りの方法を示されたのです。そうすれば、「必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」と約束されたのです。

この、預言者マラキを通してヤコブの子らに語られた“先ず、わたしに立ち帰りなさい”という主なる神の言葉を、自然に、何げなく、心の底から納得して実践していた古代の教会がありました。それは、使徒パウロが、フィリピの信徒への手紙4:15節以下に書き記したように、フィリピの教会の信徒たちでした。この個所は、パウロが第三次伝道旅行の途中、小アジアのエフェソで伝道していた時に、アルテミスの神殿に仕える者たちとのトラブルの結果、牢獄につながれた時のことを記しています。この手紙は、その折に、真っ先にフィリピの信徒たちが物質的にも、精神的にもパウロに援助を惜しまなかったことに対する感謝の思いを書き送ったものであったのです。パウロが、フィリピの信徒たちに対して、本当に尊いと思っていることは、彼らから受けた“贈り物”それ自体ではなく、その、“贈り物をしてくれた”という行為によって結ばれた“実り”のことなのです。この、“実り”は、フィリピの信徒たちが、イエス・キリストの福音と、使徒パウロを思いやる気持ちであり、とりもなおさず、フィリピの信徒たちがパウロの働きに参画していることを意味しています。そして、パウロはこの贈り物を、「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さる犠牲(いけにえ)です」と讃えているのです。まさに、神様が、喜んで受け入れて下さる献げ物に外なりませんでした。パウロは、19節で、「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます」と、自分の使徒としての全存在をかけて約束しています。この、神様の恵みこそ、預言者マラキが、3:10節で預言した、主なる神さまの言葉、「万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたがたのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」という預言の成就なのです。ヤコブの子らは、主なる神さまから、「あなたがたは、まず立ち帰りなさい」と命令されました。「立ち帰るならば、天の窓を開き、限りない祝福を注ぐ」と約束されました。この神様の約束の恵みに与ったのが、フィリピの信徒達でした。そしてこの神様のご栄光は、イエス・キリストの中に顕されています。このご栄光に与るのは、フィリピの信徒達に限りません。キリストにあって、神様のあらゆる賜物が、人間に、キリストを信じる者に与えられるのです。



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