説教

2011年11月6日

再臨の約束
大坪章美


ルカによる福音書 17章20-25節


詩編115篇は、ソロモンの神殿での祭儀の中で歌われたものと言われています。まず、祭司が歌っていますのは、“礼拝での会衆の誉”ではなくて、“神の誉”のことです。主なる神様の“慈しみとまこと”が現わされることが、御名の栄えであり、誉であると、歌っているのです。それは、そこに集う会衆の全てが救われるためでした。人間は、神様のご栄光の照り返しによって、生きる力を与えられるのです。ところが、諸国の異邦人たちは、イスラエルの民の無能ぶりを嘲り、笑うのです。2節の後半には、「彼らの神はどこにいる」と嘲り笑う異邦人の言葉が記されています。確かに、わたしたちの神は、目で見ることのできる神様ではありません。私たちの神は、被造物世界の造り主として手の届かないところ、天におられるのです。

詩編115篇の中で、イスラエルの近隣諸国、異邦人の民は、イスラエルの民に対して、「お前たちの神はどこにいる」と嘲り、揶揄しました。私たちは、今日、2番目にお読み頂いた、ルカによる福音書17:20節に、この異邦人たちの嘲りと、深い所で共通する言葉があることに気付きます。そこには、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのか、と尋ねた」と記されています。イエス様は、このファリサイ派の人々の質問に対し、彼らの本音を見抜かれて、質問の前提から否定されました。20節以下です、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある、あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国は、あなたがたの間にあるのだ」と、お答えになりました。

神の国は、既に来ているのです。私たちが、この世で志すことも、神の恵みによって出来るのです。ファリサイ派の人々には、見ることも感じることも出来なかった“神の国”について、弟子たちは、イエス様と寝食を共にしている間に、一人残らず、“神の国の到来”を認識し、その喜びを人々に宣べ伝えていました。そのような弟子たちに対して、イエス様は言われます、「あなたがたが、人の子の日を、一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることは出来ないであろう」と仰いました。神の国は到来し、この世界は神のご支配のもとに時を刻んでいるとはいえ、まだ、完成を見ていないということも、事実なのです。この私たちが生きている時代は、中間時代ともよばれることがあります。未だ、神様のご支配が確立しているのではなく、完成していない状態なのですから、人間にとっては不条理なことも起きてくるのです。私たちは、この世の不条理の中で、また、多くの困難の中で、「神様の救いは、一体何処にあるのだろう」と嘆きつつ、神の国の完成を待ち望んでいます。完成した神の国を、一目でも見たいと願っています。イエス様が約束された再臨の時、すべての不条理が正される日々を早く見たいと願っているのです。そして、イエス様は、中間時代を生きる弟子たち、それに私たちには、不安定な、苦難の時代であるがゆえに、誘惑が待ち受けていると注意を促しておられます。そして、騙されてはならないと、根拠を示して下さっています。それが、24節で、「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子も、その日に現れるからである」と言われました。その日には、稲妻が、予測もできないような形で、一瞬のうちに起きるように、突然起きると言われるのです。この再臨の時は、イエス様を信じる者たちにとっての、神の国の完成の日なのです。今は、いっときの眠りに就いている、私たちの愛する兄弟姉妹は、この再臨の時に眠りから呼びさまされ、私たちと共に、イエス様との交わりの生活に入るのです。これが、私たちの希望なのです。しかし、ここでイエス様は、ご自分の再臨の日に先立って、必ず起こらなければならないことを、話し出されます。イエス様の再臨は、イエス様が、十字架の上で死なれてから後に起きることだ、と言われました。イエス様の、私たち人間に対するこれほどまでの大きな愛を思うとき、私たちは、この世の悲惨な現実、苦しみや悲しみが支配しているように見える事態の中でも、なお、神の国を、神様の恵みのご支配を信じることが出来るのです。



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