説教

2011年10月9日

永遠の救い
大坪章美


テサロニケの信徒への手紙一 5章4-10節


イザヤ書60章は、バビロン捕囚の後に活躍した、第三イザヤと呼ばれる預言者に由来すると言われています。そして、捕囚後の混乱状態に苦しむ人々への希望の言葉なのです。エルサレムへ帰還した人々には、さまざまな困難が待ち受けていました。バビロンから帰ってきた人々は、様々な利害の対立や、貧しさの中で、自分たちの生活を立て直してゆくための苦労を強いられていたのです。イザヤは、1節で、「起きよ、光を放て」と命令します。然し、抑留の地バビロンから70年ぶりに故郷シオンへ帰っては来たものの、思いもかけぬ困難と苦しさに喘いでいる人々にとって、“光りなさい”、“輝きなさい”と命令されても、酷な話のように思えます。疲れ果てて、自力で光り輝くことなど、考えられないからです。しかし、そうではないのです。神さまは、人々に、自分の力で“光りなさい”、“輝きなさい”とは仰っていません。それは、次に仰った言葉が証明しています。その言葉は、「あなたを照らす光は昇り、その栄光は、あなたのうえに輝く」とあります。この言葉の直訳は、「何故ならば、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に現れたから」となります。あなたが輝くのではなく、あなたの光が輝かせて下さるのです。あなたに、光を放たせて下さるのです。イザヤは4節で、具体的に、目に見える形で描写します、「目を上げて見渡すがよい」と。何が見えるかと申しますと、エルサレムへと進む隊列の姿です。イザヤの預言によって、エルサレムは再び繁栄を取戻し、シオンの栄光は、輝きを取り戻すのです。

そして、このイザヤの預言から五百年ほども経った、紀元50年ころのこと、初めてテサロニケで伝道を始めたパウロは、ユダヤ人たちに妬まれて、迫害を受け、やむなくコリントへと逃れますが、立ち上がったばかりのテサロニケの集会の行く末を案じて、このテサロニケの信徒への手紙一を書きました。テサロニケの信者たちには、深刻な疑問がありました。どんな疑問かと申しますと、「主イエスが再び来られる再臨の日、生きていて再臨のイエス様に出会うことが出来る者たちは、永遠の命に招かれる希望がある。しかし、再臨の時までに地上の生涯を終え、眠りに就いた者たちは、どうなるのか」という疑問でした。彼らは、主が再び来たり給う前に召される者が出ると、慌てふためき、狼狽したのです。召された者は、救いの割り当てから、除かれてしまったのではないか、と悲しんでいたのでした。

そのようなテサロニケの兄弟たちに、パウロは言います、14節、「イエスが死んで、復活されたとわたしたちは信じています。神は、同じように、イエスを信じて眠りに就いた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。しかも、パウロが言っているのは、主が再び来られる時、これらキリストに結ばれて死んだ兄弟姉妹が先ず最初に復活し、その後に、その時、地上で生き残っている者たちが空中で、主と出会うために引き揚げられると言うのです。、パウロは、テサロニケの信徒たちに対し、この“主の日”がいつ来るのかについて、それが、思いがけず、突然起きることを強調します。3節には、「人々が、『無事だ、安全だ』と言っているその矢先に、突然、破滅が襲うのです」と、記しています。ここで言っている、“人々”とは、テサロニケの信徒たちではありません。教会外の未信者たちのことです。一方で、パウロは、4節で、“しかし”と、口調をあらためて述べ始めます、「しかし、兄弟たち、あなた方は、暗闇の中に居るのではありません。ですから、主の日が、盗人のように、突然、あなた方を襲うことはないのです」と呼びかけています。そして、5節でその理由を述べます、「なぜなら、あなた方は、全て光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも、暗闇にも属していません」と記しています。

既に召された者も、その時に生きている者も、主の日には、主と共に生きるようになる、というのです。これこそ、私たちの希望、永遠の救いなのです。パウロが、テサロニケの信徒へ書き送った「あなた方は、すべて光の子、昼の子だからです」という御言葉は、イエスさまの到来によって、光の中に入れられた私たちが、目を覚まし、冷静を保って、やがて来る主の日には、死んで眠りに就いていても、生きていても、主と共に、いつまでも生きることを約束しているのです。



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