説教

2011年9月11日

神が戦って下さる
大坪章美


マタイによる福音書 10章26-31節


イエスさまが、未だガリラヤで伝道しておられた頃のことです。イエス様は、12人の弟子たちを呼び寄せて、伝道の旅に派遣するにあたり、幾つかの心構えを述べられました。25節後半には、次のように記されています、「家の主人が、ベルゼブルと言われるのなら、その家族の者は、もっとひどく言われることであろう」。ここで、“家の主人”が指しているのは“イエス様”であり、“ベルゼブル”の意味は、“サタン”すなわち悪霊のことです。つまり、イエス様のお言葉の意味は、「わたしがサタンと言われるのなら、あなたたち、弟子たちは、もっとひどく言われるであろう」ということなのです。こういう背景のもとに、イエス様は言われました、10:26節です、「人々を恐れてはならない。覆われているもので、知られずに済むものはないからである」。そして、その根拠を述べておられます。ここで言われている、“覆われているもの”とは、“真理”のことです。イエス様のお言葉は、真理であります。暗闇で弟子たちに語られたことも、耳元で語られたことも、真理なのです。神の真理であれば、必ず、広く、明るみに出てくるのが当然なのです。イエス様は、弟子たちが、この真理の伝道者として、恐れずに立って、伝道を続けるように命じておられるのです。しかし、真理の伝道を行うにしても、大きな危険はつきものです。それなのに、イエス様は、26節で仰いました、「人々を恐れてはならない」。このような生命の危険の中で、イエス様は、ファリサイ派の人たちや、ユダヤ人、異教の人を恐れてはならない、とあえて言われています。そして、彼らを恐れる必要はないのだ、という根拠をお話し下さるのです。

それは、10:28節で言われていることです、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も、地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」。人間である彼らには、弟子たちの本当の命を奪うことは出来ないのです。彼らは、弟子たちの体を傷つけ、破壊するかも知れません。しかし、体を傷つけられ、破壊されても、完全な死ではありません。本当の命は、魂に住んでいます。彼らは、“魂”を傷つけることが出来ないのです。そして、“魂”は、生き続けるのです。終わりの日に、神様は、弟子たちの体を、再び新しい形にして下さるのです。イエス様は、弟子たちに対し、迫害を受けても、恐れることはない、と言われます。10:19節には、弟子たちが逮捕され、総督や王の前に引き出される時のことを、語っておられます、「引き渡された時は、何を、どう言おうかと、心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で語って下さる、父の霊である」。イエス様は、弟子たちが、総督や王の前に引き出されても、キリスト教の証しや、弁明する場においては、父なる神の霊が語って下さると教えています。この、本当に恐るべき方、主なる神が、迫害の中の弟子たちに代わって、戦って下さっているのです。イエス様を信じる、私達に代わって、神様ご自身が戦って下さるのです。弟子達にとっても、私たちにとっても、これ以上の大きな保証は、望めないほどです。そして、これほどまでに、幾重にも、弟子たちを守り通そうとなさる、神の意図が明らかになります、29節です。一羽の雀が地に落ちることさえも、神のご意志の元にある。この一羽の雀と比較すると、人間は、はるかに尊い、然も、神の愛の中にいるキリスト者は、かけがえのない存在なのです。然し、歴史的に、殉教の死があったことも事実です。その殉教の死は、父なる神様の目から見て、その愛する子の為に良いと思われる時に起こる“死”に、他ならなかったのです。このような“死”を、詩編116篇の作者は、次のように歌っています、15節です、「主の慈しみに生きる人の死は、主の目に値高い」。私達は、神様の愛の中にあって、幾重にも守られ、導かれています。たとえ、死ぬことがあっても、その死は、神様の目に尊く、意義のある“死”なのです。私達は、唯、永遠の命を生かして下さる父なる神を信じ、全てをお委ねして歩む者でありたいと願います。



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