説教

2011年8月7日

希望なき時の希望
大坪章美


ローマの信徒への手紙 4章13-25節


パウロは、イスラエル民族が、“父”と讃えるアブラハムの信仰について述べ始めます。創世記22:18節には、アブラハムが息子イサクを、焼き尽くす捧げものとして、屠ろうとした時、その手を止(とど)めた主の御使いが、天からアブラハムに語りかけた言葉が記されております、「地上の諸国民は、全て、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが、わたしの声に聴き従ったからである」。しかし、パウロは、主なる神がその恵みの対象を広げ、イエス・キリストによって異邦人にまで及ぶとされてからは、アブラハムを、神の国を相続する全ての者の父であると、見做したのであります。アブラハムは、ユダヤ教では、“義人”と讃えられています。その、義人と讃えられる理由とは、何なのでしょう。パウロは、この議論を、次のように締めくくります、16節です、「従って、信仰によってこそ、世界を受け継ぐ者となるのです」。“ただ、信仰によってのみ、義とされる”、アブラハムと同じ信仰に立つ者は、ユダヤ人であれ、私たち異邦人であれ、神の恵みのもとにあって、確実に約束に与ることが出来るのです。この意味で、パウロは、「アブラハムは、私たち全ての父である」と言っているのです。しかし、創世記17:5節に記された主のお言葉、「あなたを、多くの国民の父とするからである」というお言葉を目にする人々は、例外なく、訝しさを感じたことでありましょう。何故なら、その時、アブラハムには、未だ、子どもがいなかったのに、主なる神は、アブラハムを、諸国民の父とする、と断言されたからです。現実から言えば、アブラハムから子供が生まれる可能性は全く無く、子孫が増えることなど、信じられることではなかったのです。アブラハムと妻サラという老夫婦が、その歳になって子供をもうけるなど、現実的には不可能でした。希望のかけらもありませんでした。しかし、人間の思いと、神の思いとは、次元が異なるのです。神は、既にアブラハムに語られたのです。「あなたを、多くの国民の父とするからである」と。ここに、「神の御前に」成就している理想と、「人間の目には不可能」と思われる現実、とが、二者択一の形で、アブラハムの目の前に突き付けられているのです。彼自身は百歳にもなる、90歳にもなるサラに子供が産めるだろうか、現実的には不可能でした。この、“不可能”という現実から、“神さまのみ言葉”という希望へ至る“架け橋”が必要でした。その“架け橋”こそ、アブラハムの信仰であったのです。

信仰は、現実の歴史の次元における全ての可能性に逆らってでも、ただひたすらに、神の言葉に全てを委ねることであります。普通であれば、有無を言わさぬ現実が、アブラハムの信仰を打ちのめし、消え失せさせていたことでしょう。しかし、アブラハムは、そうはなりませんでした。事実として、彼の信仰は、この重圧のもとで、逆に、強くされたのです。アブラハムは、神を信じたのです。アブラハムを信仰へと動かしたものは、神に、ご栄光を帰そうとする意志に他なりません。何故ならば、どうして、アブラハムが、人間が、“神の力と、慈しみ”を制限しなければならないのでしょうか。このような、絶対無条件の信頼によってのみ、神は、神として崇められるのであります。アブラハムの、この信仰をこそ、神は“義”と認められたのです。そして、このアブラハムの信仰と義認とは、まさに、現代に生きる私たちにも係わる問題なのです。これは、ある特定の人物の特殊な召しに関することではなく、そこでは、“義”を獲得する方法が記されているのです。17節にありますように、アブラハムが、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して、存在させる神を信じた」のと、同じように、私たちは、“私たちの主イエスを、死人の中から甦らせたもうた、神”を信じるのであります。

アブラハムは、希望が全くないところから、神に全てを委ね、“義”とされ約束を与えられました。私たちも、自らの罪の身を思うとき、滅びるしかない現実の中にありながら、主なる神を信じることによって、“義”とされ、永遠の生命を受け継ぐ者とされているのです。



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