説教

2011年7月17日

自分の弱さを誇る
大坪章美


使徒言行録 18章5-11節


コリントの町は、アテネから西の方60キロのところ、ギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶ幅6キロ程の地峡の西の端にある町です。古代から交通の要衝として栄えた町でしたが、初代皇帝アウグスツスがアカイヤ州の首都に指定したことから、商業、貿易、政治の中心地となりました。

パウロは、このコリントに到着してから、ユダヤ人夫婦のアキラとプリスキラに出会います。パウロは、この夫婦と共に天幕作りの仕事をしながら、安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人に宣教していたと記されております。そして、共に旅行していたシラスとテモテが、留め置かれていたベレアの町から、ようやくコリントへ到着しましたので、パウロは、本格的に御言葉を語ることに専念し始めたのでした。

然し、パウロが力強く語り、証すればするほど、ユダヤ人の反撥も激しくなりました。彼らユダヤ人にとっては、割礼を意味の無いものとし、安息日を守ることなく、イエスをメシアと証するパウロを、律法違反の罪で捕らえ、裁判にかけようとするのです。パウロは、彼らユダヤ人が反抗し、口汚く罵ったので、服の塵を振り払って、次のように言ったというのです、6節です、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ、わたしには責任がない。今後わたしは、異邦人の方へ行く」。

そして、このことが、これ以降、パウロの伝道の対象がユダヤ人から異邦人へ移ってゆく、という世界史的転換の分岐点になりました。パウロは、この決然たる思いを、行動によって示します。パウロは、ユダヤ人の会堂ではなく異邦人であるティティオ・ユストという人の、会堂の隣にある家で伝道集会を開き説教をするようになったのです。

8節にはまた、会堂司のクリスポが一家をあげて、主を信じるようになった、ということが記されております。ユダヤ人の有力な指導者であるクリスポが、パウロに洗礼を授けられているのですから、多くのユダヤ人たちのパウロに対する妬みと反抗は、頂点に達する程であったと思われます。しかも、使徒言行録の記者ルカは、続けて、次のように記しております、「また、コリントの多くの人々もパウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」。

この状況を見聞きする者は、例外なく、“コリントでの伝道は大成功”と、手離しで賞賛するに違いありません。誰が考えても、コリントの信徒の集会を大集会に育てた立役者はパウロであると口を揃えるでしょう。そしてもしもそうであるならば、パウロは得意の絶頂にあったことでしょう。

然し、事実は、そうではありませんでした。実際のパウロは、孤立し、追い詰められていました。それは、当然のことでありましょう、世界的大都市コリントに住むユダヤ教徒の殆どを敵に回し、自らは、異邦人であるギリシャ人に向かって福音を説いており、先鋭的なユダヤ教徒の迫害を、一身に受ける立場にあったのです。コリントの信徒への手紙?の2:3−4節で、パウロは、次のように語っています、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取り付かれ、ひどく不安でした」。このように、パウロは、人間的には、非常な弱さと不安との中で、福音を語っていたのです。そして、このパウロの弱さこそ、コリントにおける伝道の大成功をもたらした秘密でした。この弱さによってこそ、パウロが命をかけて、全てを主に明け渡し、人間の技術や考えではなく、神の力と霊とが、ここに働いたのでした。

今、不安と恐れの只中にあったパウロを、主イエスは、直接、激励されるのでした。9節以下に、ある夜、主が幻の中で、パウロに語りかけられたことが記されております。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。この預言どおり、この後も、パウロはユダヤ人たちに襲われ、引き立てられ、法廷に立たされるようなことがありましたが、不思議な方法で難を逃れ、危害を加えられることはありませんでした。そして、1年半もの長い間、コリントに滞在して、コリントの信徒の集会を、大集会に育て上げたのです。



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