説教

2011年6月19日

キリストの愛
大坪章美


ローマの信徒への手紙 8章31-39節


パウロがこのローマの信徒への手紙を書いたのは、第三回伝道旅行も終盤の、紀元58年の初め、コリントの町に滞在中のことでした。パウロはこの後、当時“地の果て”と考えられていたイスパニア、今のスペインで伝道することを考えていたのです。そしてその前進拠点をローマの信徒たちの集会に置くことを希望していました。そのために、未だ一面識もない、ローマの信徒たちに、自分の福音理解を知って貰うためにこの手紙を書いたのでした。

8章31節で、パウロは、次のように述べています、「では、これらのことについて何と言ったら良いだろうか」。パウロが、“何と言ったら良いだろうか”と思案にくれる“これらのこと”とは、直前の28節の言葉を指しています。それは、“神が、私たちキリスト者を召し、救いの計画に入れて下さった以上、誰も脱落することはない。苦しみや、困難も含めて、全てが相働いて、救いと幸いとをもたらす。そして、ひとりも漏れることなく、終わりの日には、栄光の姿に変えられる”という、神の約束、即ち福音を指しているのです。パウロは、この“福音”について、「一体何と言ったら良いのだろうか」と、一言で表す言葉を見つけ出そうとしていたのです。そして、結局見つけ出した言葉が、“神が、わたしたちに味方したもう”という言葉でした。パウロは言葉を続けます、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」。パウロの時代には、キリスト者に敵対し、苦しめ、迫害する勢力が数多くありました。しかし、パウロは、「それが、どうしたのですか」と言っているのです。キリスト者に敵対し、脅かし、苦しめる者たち、これらと戦い、渡り合って、相手の矛先を受けて下さるのは、私たちではなくて、全能の神、主ご自身だ、とパウロは言うのです。これほど私たちの心を平安にする言葉があるでしょうか。次にパウロは、私たちを窮地に陥れる二つの事柄について語り出します。そしてそのひとつは、私たちの“罪”についてです。

私たち人間の中で、罪を犯すことなく、神さまに背を向けることなく、一生を過ごせるほど完璧な人は、存在しません。訴える人々の言い分は、幾つもあるでしょう。然し、それが何になるのか、とパウロは言うのです。何故なら、私たちキリスト者の罪は、イエスさまが、十字架上の死をもって、全て引き受け、贖っていて下さるからなのです。また、パウロは、もうひとつの、事柄についても語り出します。それは、35節から始まります、「誰が、キリストの愛から、私たちを引き離すことができましょう」との問いかけです「艱難か、苦しみか、迫害か飢えか、裸か、危険か、剣か」。これらは、決して大げさなものではなく、パウロ自身が体験したものばかりです。パウロが、このような数々の危険の只中にあって、なお確信していたのは、「私たちに対するキリストの愛は、動かされることなく、私たちから奪い去られることはない」ということでした。

イエス・キリストを通して働く神の愛は、私たちの生活が、たとえどんな変化を蒙っていても、微動だにすることはないのです。パウロは、考えられ得る限りの言葉をもって、この世界、この宇宙にある現実を並べ立てようとしています。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいる者も、低い所にいる者も、他のどんな被造物も、主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と述べています。パウロは、これら未知のものも全てひっくるめて、実際の私達の状態が、この世の肉体をもった存在であっても、死んで眠りに就いている状態になっていたとしても、一切、関係ない、如何なる被造物の存在も、その変化も、神の愛と、私達との間には、割り込む事は出来ない、と言い切っているのです。この事は、主イエス・キリストにある神の愛の内にいる私達キリスト者にとって、この被造物の世界には、本気で恐ろしいと思うような、どんな力も、事件も、存在も、変化も、何一つとして、無い、という事を意味しているのです。今週も安心して歩み出しましょう。



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