説教

2011年5月29日

絶対的真理
大坪章美


マタイによる福音書 20章20-28節


20章20節の「そのとき」は、イエスさまが、この悲痛なご受難予告、人間の罪を徹底的に赦し、贖うために、神にさえ呪われるという、およそ、人間の受ける最も悲惨な刑罰といわれる十字架刑を、ご自分の身に受ける、という受難予告をされた“そのとき”でした。そのとき、ゼベダイの息子の母が、その2人の息子と一緒にイエスさまのところに来て、何かを願おうとしてひれ伏した、というのであります。いったい、どんな願いなのでありましょうか。イエスさまが、人間の罪の赦しのために、最も悲惨な形で身代わりの死に就くという予告をされたばかりのその時に、何を願おうというのでしょう。イエスさまは、静かに声をかけられます。21節です、「何が望みか」と尋ねられました。すると、このヤコブとヨハネの母は、次のように答えるのです、「王座にお就きになるとき、この2人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れ、と仰って下さい」。ところがそれは、“この世の王国”を念頭に置いたものでした。そして新しくイエスさまが王座に就かれる王国で、王座の右と左に2人の息子を座らせて下さい、と願っているのでありました。

ゼベダイの子らの母親には、慢心があったのかも知れません。このような気持ちが、弟子たちの間に、競争関係という緊張を醸し出していたのであります。 このような雰囲気の中での、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親の、一方的なお願いでした。

このような、誰が考えても唐突なゼベダイの子らの母親の願い事にも、イエスさまは、穏やかにお答えになるのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と。続いて、彼らの覚悟の程を確かめられるのです。次のように質問されました、「このわたしが飲もうとする杯を、飲むことができるか」。「このわたしが飲もうとする杯」とは、イエスさまの十字架上の御苦しみを、共に担うことでした。これに対して、ヤコブとヨハネは、全く躊躇することなく、即座に「出来ます」と答えたのです。よくよく考えて答えたとすれば、余りに早い返事でした。結局はこの2人には、イエスさまが仰る“杯”が、どんなに苦しく苦いものであるかが全然分かっていなかったようです。

そして、次にイエスさまが仰ったお言葉こそが、「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」という言葉の意味でした。23節です、「然し、わたしの右と左とに誰が座るかは、わたしが決めることではない。わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。そしてそれは、父なる神とイエスさまとの問題、いわば、歴史の外で決められていることであって人間が知るべき問題ではない、と仰っているのです。

ヤコブとヨハネの母親は、2人の子の将来の保証を、イエスさまに願い求めました。しかし、人間が将来の保証を得てしまうと、良い人生を送ることはできません。保証を得るために努力することこそ、大切なのであります。イエスさまは、弟子たちに対して、絶対的真理を説き始められます。26節です、「あなたがたの中で、偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。皆に仕える者は、偉くなるのです。皆の僕になる者は、一番上になるのであります。そして、これこそが、“絶対的真理”、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネ、それに母親が、分かっていなかったことなのです。人の上に立つことは、困難を伴います。人の心を支配しなければならないからです。然し、イエスさまが仰る、「皆に仕える」、「皆の僕になる」ということは、自らが納得すれば、何時からでも、誰にでもできることです。ここに、“絶対的真理”と言われる理由があります。イエスさまは、そのお手本として、ご自分のことを証されました。28節、「人の子が、仕えられるためではなく、仕える為に、また、多くの人の身代金として、自分の命を捧げるために来たのと同じように」。そして、それは、わたし達が、教会で、皆に仕えるのと同じことであると仰っているのです。わたし達も、イエスさまが仕える為に、この世に来て下さったように、聖日ごとに教会に来ています。そして、それは、“皆に仕える為”なのです。



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