説教

2011年5月22日

さあ みんな来なさい
大坪章美


マルコによる福音書 11章25-30節


イエスさまがガリラヤの町々や村々を回って伝道されていた頃のこと、方々の町で教え、病人を癒やし、奇跡を行って宣教されていましたが、その町々が、一向に悔い改めようとしなかったので、叱り始められたのです。それらの町々は、いずれもガリラヤ湖の北側に点在しております。まず槍玉に挙げられたのが、コラジンとベトサイダの町でありました。

イエスさまは、これらイスラエルの民の住む町を、何と、異邦人の住む町、ティルスとシドンを引き合いに出して、悔い改めを迫られるのです。ユダヤ人たちは、これらの町を日頃から、傲慢な気持ちを持って見下げていました。と、言いますのは、これらの町が昔から堕落の中心地であったからです。しかし、イエスさまは、なんと、ユダヤのコラジンやベトサイダの住民たちは、ティルスやシドンの異教徒たちよりも罪が重い、と言われているのです。そして、その理由は、ただひとつ、その住民たちは、イエスさまの奇跡の御業を自分たちの目で見ておりながら、一向に悔い改めようとはしなかったから、と言われるのです。

また、イエスさまは、カファルナウムの町を指弾されます。カファルナウムの住人たちは、最高の恵みを与えられ、神の国に至る、特権まで得ているように思われるほどでありました。しかし、皮肉なことに彼らのこのような思いが、ティルスやシドンのような異教の民を見下し、嘲る結果に繋がっていったのです。あのソドムでさえも、イエスさまがカファルナウムで示された愛の業、奇跡を見ていたならば、滅ぼされることは無かったと仰るのです。

そして、イエスさまは、次のようにいわれました、「天地の主である父よ、あなたをほめ讃えます。これらのことを、知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました」。 “これらの事”とは、「イエスさまがなされた救いの御業にも係わらず、これらの町のユダヤ人達が悔い改めをしなかった。その結果、滅びの道へ歩まざるを得ない」という、真理であります。イエスさまは、この真理を、“知恵ある者や、賢い者に隠して幼子のような者に示された”のは父なる神である、として、神を讃美しておられるのです。

イエスさまは仰っています、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。この日本語訳には現われていませんが、原文では、イエスさまの口調はもっと明るいのです。直訳では「さあ、みんな来なさい、わたしのところへ」となります。そしてイエスさまは、ご自分の許に集まってくる者達に、父なる神を知らしめて下さるのです。イエスさまが、御許に呼び集めようとされている、疲れた者や重荷を負わされた者たちとは、今日、最初に申し上げた、不信仰なコラジンやベトサイダ、カファルナウムのユダヤ人たち、またファリサイ派の要求する厳しい律法厳守のユダヤ教に疲れ果ててしまった民衆達たちを指して、呼びかけられていると考えられます。

ここに至って私たちは、底知れぬ大きなイエスさまのご愛に気付かされるのです。これらの町のユダヤ人たちは、イエスさまが行われた数々の奇跡を目にしながら、イエスさまを拒否し、苦しめた人々でした。イエスさまは、その彼らに向かって、“さあ、みんな来なさい、わたしのところへ”と招いて下さるのです。イエスさまは、続けて仰います、「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの頸木を負い、わたしに学びなさい。」。頸木を負う、ということは、それだけの負担が生じることは事実です。しかし、私たちは、ここで二の足を踏んではならないのです。イエスさまは、仰います、「わたしの頸木は負いやすく、わたしの荷は、軽いからである」。私たちは、イエスさまの頸木を負い、イエスさまのご意思を行う決意を新たにするのです。その決意をすると同時に、私たちの全生涯に、平安が訪れるのです。何故なら、イエスさまが私たちに示す労働は、生きる上での、活力の源になるものだからなのです。そして、私たちは、イエスさまの頸木を負うことによって、罪赦され、平安のうちを歩むことができ、永遠の生命に生きることが出来るのであります。



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