説教

2011年5月8日

わたしの羊
大坪章美


ヨハネによる福音書 10章11-18節


エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた頃のことであります。イエスさまが、エルサレムの神殿の境内で、ソロモンの回廊を歩いておられた時のこと。季節は冬でした。神殿奉献記念祭は過越しの祭りよりも4−5ヶ月前に行われますから、その時は紀元29年の冬でした。イエスさまは、周りを取り囲むユダヤ人達とのヤリトリの中で“羊の囲い”の話を始められたのです。

イエスさまは、宣言されます。「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と。ここで、イエスさまが言われた、“羊のために命を捨てる”という言葉の中で用いられている“命”とは、“魂、霊魂”を意味する言葉であります。肉体的な命は人間によっても殺せるでしょう。然し、霊魂を人間は殺すことが出来ません。魂を滅ぼすことができるのは、神様だけなのです。イエスさまは「良い羊飼いは、羊の為に、“霊魂”を捨てる」とまで、言われているのです。そしてこのことから私達は、イエスさまの人間に対する限りない大きな愛の存在、に気がつくのであります。

イエスさまは、14節で、「わたしは良い羊飼いである」と、11節に続いて、同じ言葉を、二度繰り返されました。最初に仰った11節では、三人称で、「良い羊飼いは、羊のために、彼の命を捨てる」と仰いました。14節で、二度目に仰ったのは、「わたしは、わたしの羊を知っており、わたしの羊も、わたしを知っている」と、明らかに、一人称で語られたのであります。イエスさまのお話が、次第に熱を帯び、それだけ、心を込めて話されていることが、窺い知れるのです。

そしてイエスさまは三度目に、言われます、「わたしは、命を、再び受けるために、捨てる。それ故、父はわたしを愛して下さる」。前の二度は、「わたしは、わたしの羊のために、命を捨てる」という言葉でありました。ところが、この三度目は、「それを、再び受けるために、わたしの命を捨てる」と仰っているのです。この言葉を直訳しますと、「それを再び掴み取るために、わたしはわたしの霊魂を捨てる」との意味になります。

ここには、イエスさまが、周りに居る弟子たちを意識して、語っておられる言葉があります。やがて、自分の十字架上の無残な死を目の前にすると、弟子たちは嘆き、悲しみ、きっと、動揺するであろう。彼らの信仰さえ、危うくなるかも知れない。イエスさまは、「それを、再び受けるために、わたしの命を捨てる」と仰ることによって、自分の“死”は、“甦り”即ち、“復活”を前提としたものであるということを、弟子たちに知らせようとされたのであります。

然し、次に続く言葉で私達は、御父なる神の人間に対する驚くべき深い愛が込められていることに、気がつくのであります。イエスさまは、仰いました、「それ故、父はわたしを愛して下さる」と。“それ故”というのは、何の為か、と言いますと、“イエスさまが、羊のために、つまり、私たち人間のために、霊魂を捨てる”が故に、なのであります。父なる神様は、イエスさまが人間の罪のために死なれることを持って、イエスさまを愛される、と言うのであります。それほどまでに、父なる神様は人間を愛され、御子イエスさまを犠牲にしてまで人間との和解を果たしたかったのであります。

イエスさまが仰る、「わたしは、自分でそれを捨てる」という言葉の、“自分で”というのは、もともとの言葉は、“わたし自身の意志によって”と翻訳されます。そしてここには、御子なるイエス・キリストが、父なる神の御心に完全に従う意志が現われています。イエスさまはご自分が羊のために、喜んで命を捨てることが、父なる神様の御心であることを知っておられるのです。

こうして、イエスさまのお言葉は、「わたしは命を捨てる権能を持っており、再び手に入れる権能も持っている。これは、わたしが父から受けた命令である」という意味になります。このことは、そもそも、父なる神さまが、そのひとり子を、地上に送ってくださった目的にまで、遡る言葉です。

父なる神様が、人間の罪を贖い、人間との和解を果たすために、その偉大なる御一人子を犠牲にされたことを、告げておられるのであります。



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