説教

2011年5月1日

見ないで信じる者に
大坪章美


ヨハネによる福音書 20章24-29節


今日の聖書個所の冒頭には、「十二人の一人で、ディドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒に居なかった」と記されております。「イエスが来られたとき」というのは、あの週の初めの日でした。イエスさまが、十字架に架って死んで下さった金曜日から三日目の、あの日です。その日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちに、見つかって逮捕されるのを恐れて、エルサレム市内の、ある家に集まり、戸には鍵をかけて息を潜めておりました。イスカリオテのユダと、トマスの2人を除く、12弟子のうち10人が集まっており、教会の芽生えを感じさせる集まりでした。

すると、イエスさまが彼らの真ん中に立って、「あなた方に、平和があるように」と言われたのです。そして、イエスさまは、ご自分の手、即ち釘の後、と、脇腹、即ち、兵士が刺したところを、お見せになりました。20節の後半には、「弟子たちは、主を見て、喜んだ」と記されております。何という明るい表現でありましょう。それは本当に、再び生きたイエスさまに出会ったが故に湧き上がった、心の底からの喜びでした。

この、10人の弟子たちが、復活のイエスさまにお会いして、喜びに浸った、その大事な場面に居合わせなかったのが、トマスでした。他の弟子たちが、「私たちは、主を見た」と言ったのに対して、トマスは言い返しました、「あの方の手に、釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をその脇腹に入れて見なければ、私は決して信じない」。トマスは、他の弟子たちの証言を聞いても、信じなかったのです。現代でも、そのような人々が多いのは事実ですが、死人の復活などということは、古代の人間の知識と経験からしても、容易には信じがたいことではありました。

そして、あの日から、八日が経ちました。弟子たちは、八日前のあの日と同じように、エルサレム市内の同じ家に、全く同じ状態で集まっていました。ただ、ひとつだけ違っていたのは、今回は、トマスも一緒に居たことであります。イエスさまが、入って来られて、真ん中に立たれて、「あなた方に、平安があるように」と仰られたところまでは、八日前の出来事と、全く同じでした。違ったのは、その後、イエスさまが、トマスの方に向き直られて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と言われたことでした。イエスさまは、全く、トマスの言葉に答えるように、この言葉を仰いました。このことは、イエスさまが、もう、とうに、トマスの心の内をご存知であったことを物語っているのであります。そして、イエスさまは、トマスのためにも、祈っておられたのであります。そして、トマスには、このご命令が、次のように聞こえたのです。「この手の平の釘跡は、誰がつけたのか。わたしの脇腹の槍の傷は、誰が刺したのか。」

トマスは、思いました、「イエスさまの手の平に釘を打ち込んだのも、イエスさまの脇腹を槍で刺したのも、自分だ」と思い知らされたのです。そして、大きく悔い改めたのでした。「私を赦して下さっているイエスさまを、信じようとはしなかった。イエスさまの手の釘跡に指を入れて見なければ、イエスさまの脇腹の槍の傷に、手を入れて見なければ信じない、などと嘯き、イエスさまを本当に傷つけたのは、この私だ」と悔い改めたのであります。トマスは、復活のイエスさまに出会って、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をいたしました。そのようなトマスに、イエスさまは仰います、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。イエスさまは、“見ないで信じる信仰”を祝福されます。この言葉をヨハネによる福音書の最後に位置するところに置いたということは、ヨハネが、書き綴ってきた福音書の中で、最も印象深く残したかった、イエスさまのお言葉でした。この言葉は、ヨハネによる福音書の1章18節の、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる、ひとり子である神、この方が、神をしめされたのである」という言葉と、響き会っているのであります。



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