説教

2011年3月20日

「神の子」と呼ばれて
土橋修


ヨハネの手紙一 3章1-10


異端「反キリスト」に対し、反論したヨハネは、神と独り子イエスとの結びつきなくして、キリスト教の真理はあり得ないと、徹底的に強調しました。

3章はこの真理に立って、信者の生活についての話題に転じます。1節原文は「視よ」と始まります。訳文は終りに「考えよ」とその意を表現します。この考慮喚起は「神の愛の偉大さ」を訴えます。それはエフェソ書では「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」としてアピールするところです(3:18)。この愛を受ける身の幸いを「神の子と呼ばれるほど」と、彼は表現します。「呼ばれる」は受け身で、上なる神からの強い働きが込められています。受け手の人間としては、その恵みにあずかる資格は少しもないのに、との気持が含められている筈です。ヨハネ福音書は1章11−12に「言は自分の民の所来たのに、民は受け入れなかったが、言は自分を受け入れた者、信じた者には、神の子となる資格を与えた」と、告げています。「神の子の権」は正に、人の知恵・知識によらず、神の恵みを深く味わうべきです。

ヨハネは「神の子」の恵みを自覚し、「事実また、その通りです」と表現し、確信を披瀝します。しかし、直ぐに「自分がどのようになるかは、未だ示されていません」と、信仰と希望の間のためらいを見せます。しかしこれが、わたしたち世にある者の信仰の実相ではないでしょうか。現在を顧みる時「神の子」の私は、余りにも貧弱・貧相です。その資格を恥じ入るのみです。にもかかわらず、御子の受肉と十字架の故に、今この「神の子」の恵みに支えられるのも、確かな神の約束なのです。わたしたちの信仰の現在とは、御子に望みをかける人々の皆のことです。こうして「御子に似た者となるため」に、今は希望の信仰を歩み続けようと励むのです。「今既に神の子。後いかに」の、今現在と後将来の間に、「御子に似た人」と願いつつ、「清潔の道」(清め)がキリスト者の証しとして生じるのです。堅苦しい道徳訓としてではない、キリスト者の信仰の証しとしての生活実践が、そうさせるのです。「神の子」のことばが繰返し出て来ました。それには二重の意味が含まれています。第一に、神の子はその所属(身分と本質)を示します。アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブ、ヤコブの子はユダであるように。第二は、幼児から成人までの生涯を通じて、人生に成長変化があります。幼児は幼稚園に通い、園児と呼ばれ、小学校では児童、中高学校では生徒、大学では学生、成人して異端児呼ばわりされることも、その間の成長で、人格形成がなされ一人前の人間としての生涯が全うされるわけです。英語流に言えば「神の子」は、son of Godとchildren of Godの違いです。

聖書は第一にわたしたちは神のsonであると言うのです。創造の神を父とし、神の権威の下に所属し生き続ける者として、この生存の在り方は不変です。しかし、第二に肉の世に生きる限り、悪魔の子への惑わしに陥る弱さを持ちます。このため、惑わしに落とされず、最終まで神の子たり続けるために、キリスト・イエスの罪のあがないに与り、神の言(掟て)に聞き、御子イエスの御手にすがって、清き歩みに進まねばなりません。そこにキリスト者の信仰による成長を見るchildrenの性質を帯びるのです。

神は創造のはじめに「御自身にかたどった人を創造された」(創世記1:27)のも、結局は「キリスト・イエスにあって」それを成就されたのです。真理はここに明らかとされたのです。「神の子たちと悪魔の子たちも区別は明らかです」と、ヨハネは断じます。本来在るべき「神の子」の所属を、独り子イエスの父なる神にしかと確かめ、弁護者イエスの助けの下に、身を託し御手にすがって、神の子として成長していきたく願います。祈りの生活が、兄弟愛の営みが、そこに求められることを忘れずに。



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