説教

2011年3月13日

「反キリスト」への挑戦
土橋修


ヨハネの手紙一 2章18-29節


教会暦は受難節(レント)に入りました。最初の日を「灰の水曜日」(9日)と呼び、この日罪を悔改め新生を誓う者が、荒布を身にまとい、犠牲の牝牛の灰をかぶり罪の赦しを祈る、伝統の儀礼に与るのです。

レントは数詞の四十です。このあとイースターまでの四十日間を、主の御受難を偲び、恵みを覚え、祈りの日々を過ごしたく思います。

「終りの時」来るとの警告は、主の十字架の死後、既におおよそ七十年を経たエフェソ教会は、異端騒動に巻き込まれ、教会離脱者が続出し、まさに主の再臨前に起こると告げられている「終りの時」かと思われたのです。パウロのテモテの手紙(第二3:1-5)にも、「終りの時には困難な時期が来ることを悟れ」との警告が、こと細かく手引きされています。

ヨハネの場合は、彼らを「反キリスト」と呼びました。彼らはイエスの受肉を否定しました。キリストたるイエスのうちには、ヨハネ3:16の「小福音」が命として込められています。「神はその独り子を肉によって、この世に遣わされた」というメッセージです。「それほどに、世を愛された神の愛」が、人となったイエスの存在価値を告げるのです。抽象的知恵・観念ではないのです。生ける神の痛める愛が、そこに現実的に示されているのです。「反キリスト」はそれを否定し拒否するのです。残念ながら、彼らは「もともと仲間(同志)ではなかったのです」とのヨハネの弁には、無念とともに、勇気ある決断が読みとれます。この問題には、もはや妥協は許されなかったのです。「しかし、あなたがたは聖なる方から油をそそがれているのです」のメッセージにこそ、真理が告げられています。「聖なる方」は「メシア(クリスト)」です。注がれる「油」はクリスマで、原語はクリストスです。(27節)の「しかし、あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません」は、その註であり、「キリスト者とはキリストから油が注がれた者」の意です。

「わたしがあなたがたに書いているのは」(21)のことばは、既述の(12-14)にも強調されていたことを思い起こさせます。各節「わたしがあなたがたに書いているのは」が、繰返し強調されています。彼は教会の信徒たちに、言葉をかえ、説明を尽して、どんなに真剣に懸命に、イエスの名による教えの尊さ、確かさ、力強さを伝えようとしているかが、汲みとれるはずです。22節「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなく、誰でありましょう」の言には、ヨハネの情熱的確信のアピールが、激しく伝わってくるのを感じます。「御父と御子を認めない者、これこそ反キリスト」と迫ります。人間の認知によらぬ、自明の真理をヨハネは訴えているのです。北大の学生寮に「啓迪(けいてき)寮」という名のクリスチャンの寮があります。その名の「啓」は上から開くの意、「迪」は道・正す・導く等の意です。反キリストは「己が腹を神」とするのですが、真の真理の道は上より神より来るものです。この道を行く者がキリスト者の生きる道です。23節には、「結ばれる」の語が重なります。受肉の御子を認める者、公に言い表す者が、御父に堅く結ばれるとの主張を守り抜きたく思います。これを認めず否む者は、単に消極的に肯定しないと言うことではすまなくなるのです。その行末には、「御子が約束された約束、永遠の命」が秘められているのです。イエスはゲッセマネの捕縛直前の祈りで、次のように祈っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と。求められるべきは「御子から注がれる油」です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と告げられるイエス・キリストにあってこそ、人生に希望と勇気が与えられるので、この方こそ「わたしの苦しみを顧みて助け出して下さる方です」。



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