説教

2011年1月23日

あなたを弟子とする
梅田憲章

そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


ルカによる福音書 5章1-11節


イエスがゲネサレト湖畔に立っておられたとき、群衆は生きることの苦しみからの解放を願って集まってきた。漁師たちはすでに1日の業を終え、後片付けの網を洗っていた。その日は夜通し苦労したのに、何も取れなかった。ペテロにとって「今は一人にしてほしい。」ときであった。しかし、イエスは近づいてシモンの舟に乗り、そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。シモンはイエスが群集に向かって話しかけるのを聞きはじめた。舟から見ていると、岸にいる群集の眼が爛々と光り輝いてき、まっすぐにイエスに向かって注がれてくるのをみるのであった。確かに、この人の示す神の国は私たちの希望だ。この人の言うとおりだ。シモンは思った。話が終わると、イエスは言った。「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」シモンは思った。「神の国の話では、あなたを師とお呼びいたしましょう。しかし、この湖で、漁に限って言えば、私の方が技術、知識、経験、何をとってみても私の方が上だ。」そしてシモンはイエスに「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」いった。この言葉は実に私たちの言葉なのである。

しかし、シモン・ペトロはイエスが話したときの群集の目の輝きをわすれていなかった。この方に従えば、自分の力を超えて何かが起こるのではないか?「網を降ろしてみましょう」と答えた。そうすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
これがイエスの示したシモンへの答えだった。魚は網を破りそうに、2艘の舟を沈めそうになったのであった。ペトロの知っている幅や限界を超えていた。
ペトロの日々の積み重ねである人生の時間の中に、突然躍り込んできたイエス。そして、ペトロに「ペトロの持つ限界」を示されたイエス。この言葉はまさに神の言葉であった。神の言葉を人間に時間の中で実行したときの様相を示している。多くの群集も一人ひとりイエスから神の言葉を聞いたにちがいない。人生の言葉として聞いたもの、神の言葉として聞いたものをいた。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」彼らがこの言葉を聞いたとき、とった行動は「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」であった。

集まっていた群衆の一人ひとりに聞こえた神の言葉は千差万別であった。またその対応も千差万別であった。残念ながら、多くの群集は神の呼びかけに答えずに、心をかたくなにして、自分の人生を選び取った。

しかし、シモン・ペトロらは、イエス・キリストの呼びかけにこたえ、生涯をイエスの伝道の奉仕者としての道を選び取った。安定した職業を捨て、家族を捨て、父母を捨てた。彼らは彼らの時間である人生の安定した未来を捨て、神の支配される神の時間に身を投じた。彼らは人間の魂を神の国へと繋ぎとめる、人間を対象とする宣教活動へと転進したのであった。しかし、このイエスに従う道は、すべてを放棄し、断ち切る道であったが、このようなときですら、断絶にならなかった。マタイ8章ではペトロのしゅうとめもイエスに従う人々の群れに、何らかの形で加わったことを示している。またイエスが十字架にかけられたとき、マタ 27:55-56では、ゼベダイの子のヤコブもヨハネの母もその下で見守っていたのであった。

神の言葉に従うとき、断絶と思えるような事柄も、最終的には本当の絆が結ばれ、撚りが深められていったという喜ばしい事実を確認することが出来る。神の言葉を聞いたものたちはそのような質的に新しい生涯の第1歩を歩みだしたのであった。

今日もイエス・キリストは私たち一人ひとりに神の言葉を伝えて居られる。

自分の人生の時間の中に躍りこんで来た神の時間、神のいない人生を考え、拒絶して生きるか、それとも、神に従い、神が共に歩んでくださる新しい明日を迎えようとするか決断するのは今なのである。



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