説教

2011年1月16日

ヤボクの渡しで
三枝禮三


創世記32章23〜32節 マルコによる福音書14章32〜42節



〈創世記32;25b〜26〉「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。」

 「何者か」とは神の使いとも神ご自身ともとれます。しかし、当初それはヤコブにとっていきなり挑みかかってきた得体の知れぬ妖怪めいた相手でした。相撲かレスリングです。夜通しの格闘にも決着がつきません。ついに相手がヤコブの腿の関節を打つと関節がはずれました。ヤコブは膝をついたはずです。勝負あったわけです。ところが、ヤコブは「祝福してくれるまでは離さない」と相手にしがみつきます。そこで名を聞かれます。「ヤコブです」すると相手は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」と言って祝福してくれました。名はその人の本質を表すとされていた世界です。ヤコブとは聖書的には「踵をつかむ者」「押しのける者」という意味です。自己中心のエゴイストです。ところが、イスラエルとは「神が支配する」または「神が支配されるように」という意味です。ですからヤコブからイスラエルへの改名は全存在の変革を意味する出来事です。自分が支配するものから神に支配されるものへの大回心です。

 問題は何故そういうことになるのかという根拠です。理由です。ついにヤコブを祝福してくれた相手はその理由を明らかにしています。「お前は神と人と闘って勝つたからだ」。この判定がさっぱり解りません。人というのは後にしてきたラバンや向かい来るエサウのことだとすれば、・彼らに対してお前は既に勝っているのだと励ましている言葉かも知れません。しかし、神と闘って勝ったなどとどうして言えるのでしょう。ここでのヤコブは現に相手に腿の関節を打たれ砕かれ脆かされているのです。 それがどうして勝ったなどと判定されるのか、解せません。理屈に合いません。

 この難解なテキストに光を投げかけてくれるのは主イエスのゲッセマネです。イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。三度も同じ祈りを繰り返します。それは血の汗が流れたほどの格闘でした。しかし、与えられた答えは・…?十字架です。磔にされ、打たれ、砕かれることでした。どう見てもイエスの負けです。しかし、復活によって明きららかにされた神による判定はイエスの勝利でした。あり得ないことが起こったのです。死んだのに生きている。負けたのに勝っている。砕かれたのに勝ったと言う。

 どんなに理屈に合わなくても、ヤボクの渡しでのヤコブの格闘はゲッセマネでのイエスの祈りの格闘を指し示している預言的物語だったのです。顔と顔を合わせて神と出会ったのになお生きている。負けたのに勝った。砕かれて膝をついるのに勝者と言われる。それは自己中心の自我を砕かれ神以外のいかなるものに対する恐れからも解放されて勝つたということ。何故なら今や神以外の何者にも支配されない神ご自身の民、イスラエルだからです。そして、これこそがヤコブの祈りに対する神の答えであり、祝福だった。

 今まさに向かい来るエサウは、ヤコブにとって自らの罪に対する裁きの接近、死の接近だったに違いありません。ヤコブに挑みかかってきた得体の知れぬ相手は、その裁きと死の影だった。晩年の森有正の言葉によれば、人間が死ぬ瞬間に考えることは、人に罪を犯
しているかどうかということだけだということです。その罪に対する裁きと死への恐れから自由にされるためには、私に代わって磔にされ、打たれ砕かれている十字架の主イエスを仰ぎ信じることだけ。生きる時も、死ぬ時も、私は今やただ主のものと聞くことだけです。

 ハイデルベルク信仰問答は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」という問いに答える。「わたしが、身も魂も生きている時も、死ぬ時も、わたしのものでなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであるということ」

 私共にもそう告白することが許されているのです。



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