説教

2011年1月9日

主の栄光顕現
土橋修


ルカによる福音書 2章22-38節


降誕祭が12月25日と定められたのは、3〜4世紀頃のことで、それ以前は1月6日でした。東方正教会(ギリシャ正教会)は、今もこの日に降誕祭を守ります。私たちはこの日を「公現日(顕現日)」と呼びます。

降誕後八日目「長子聖別の日」に、イエスは老祭司シメオンの手に抱かれ福音を受けた際、「異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」と、讃美を受けました。シメオンは、今はもう安らかに去ってもよい、とまで言います。「この目であなたの救いを見たからです」とその訳を告白します。降誕の喜びを、ここまで言えたシメオンの信仰に、私は強く心打たれます。

23年前の正月早々、友人牧師の誘いで、私たち夫婦揃って聖地旅行ツアーに参加しました。行程は聖家族の逃避行に逆行し、エジプト・カイロから始まりました。カイロ郊外で、聖家族が初めて落着いた地に建つ教会を訪ね、ピラミッドを見、スフィンクス前で写真もとりました。このスフィンクスの腕に聖母子が安らう、珍しい聖画があります。そのスフィンクスは道行く人に、謎かけするのが有名です。「朝は四つ足、昼は二本足、夕べは三本足で歩く者は何者か」と。今私たちは彼からの、謎かけを受ける思いです。「この腕に抱かれている幼子は誰なのか」との問いです。

正月4日に紅海に一泊。ホテルの名は「レッド・シー」。一行がひそかに計画した、家内の誕生祝いに、本人も私たちも和み、旅は一層楽しいものになりました。6日早朝はシナイ登山。山頂での日の出は深紅に燃え、その赤い光に染まって膝まづき祈る男性の姿が、強く印象づけられ忘れられません。山を降りると、山麓の「聖カタリナ修道院」の鐘の音が、美しく高らかに鳴り渡りました。彼らの御降誕を祝う喜びの知らせだったのです。クリスマスにモーセの山に登るとは、何と幸いなことでしょう。詩編に「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」と(103:7)あります。神の恵みはモーセに次いで、イエスにひき継がれたものです。

殉教者ステファノの説教の中で、彼は延々とモーセ120年の生涯を語り(言行録7:20〜)、その中でシナイ山で、柴の燃える火の中に彼は主の声を聞きます。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と。モーセはこれによって、出エジプトの荒野に神の民を導き出しました。シナイ山で「十戒」も受け民らに伝えます。必ずしも民らは彼に従うことなく、時は流れました。

イエスの時代に主は「山上の変貌」を現わします。高い山の頂に主を囲んで、モーセ・エリヤが現れます。やがて光り輝く雲の彼方から、神の声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17)と。予言者たちの役目は終り、イエスに於いて予言は成就したと告げられたのです。

扇の要(かなめ)は主イエスと告げられました。降誕祭の喜びは、イエスの上に輝くのを見ます。ヨハネ福音書は降誕物語として記しませんが、光としてのイエスを強調します。「光」の語は21回も出てきます。イエス自らも「わたしは世の光」と告げます。創造のはじめ神が先ず語られた「光あれ」は、正に独り子イエスの受肉に顕現されたのです。この「光」は第一に、混沌から秩序を生み出す力。第二に、秘められたものを明らかにする力。第三に、これを受ける者凡てに、霊と熱を与え、活動の力を生み出すのです。

降誕祭は神の栄光の「顕現」です。イエスの現れに「神の光」を見、それから命と力を、平和と喜びを、彼を信じる信仰の賜物として、凡ての人が与えられると言うよきしらせ(福音)なのです。「顕現」の英語は「マニフェスト」です。それは単なる政見発表で終わらないことばです。岩波英和も引用句として、ヨハネ第一、4:9の聖句を紹介してくれます。「神の子のこの世への派遣」と言う、「神の愛」の顕われに真の顕現が秘められているのです。聖母子を腕に抱くスフィンクスの謎も、これで解けるわけです。



前のページへ戻る