説教

2011年1月2日

新しいぶどう酒
梅田憲章

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。


マタイによる福音書 9章14-17節


ヨハネの弟子たちがイエスのところに進み出て「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねた。まず、罪を悔いるために断食をすべきではないか、苦行によって罪を免除してもらうという努力こそが神の国に入るために必要ではないのかというのでした。

イエスは2000年前に、このような状況のユダヤのパレスチナ地方に現われた。イエスの「お前たちは神の国に入ることが出来るのは、律法を正しく守っている人々であるという条件を付けている。」という発言と行動は大きな衝撃を与えた。というのも、イエスは「神の国」に入ることについての人間の側の条件を何一つ付けていなかったからである。イエスは徴税人や罪びとと出会い、彼らがこの世の秩序の中で「神の国」の権利を持っていない者としての抑圧されていることから解放することを行った。それは大きな喜びをもたらす事実であった。彼らは「神の国」を与えられたものとして、ザアカイのように「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」ルカ9:8という新たな行為へと走らせた。イエスは自分の力で神の国に入ろうとする自力型からイエスとの出会いによる他力型へと変化させた。イエスはこのことを踏まえて、今はイエスの到来のとき、喜びの婚宴のときと証し、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちすると語った。

ユダヤのお酒はおおむねぶどう酒ですが、新しい酒は発酵力が強く、たいていは壺や桶に入れられました。
1週間か10日の後にやっと革袋に入れられますが、その場合も必ず弾力のある「新しい革袋」が用いられました。中身が生き生きとした力に満ちた新しいぶどう酒、ふつふつとたぎり出る勢いの強いぶどう酒を熟成させ、保存し、運搬するためでした。新しいぶどう酒は生きているのです。炭酸ガスを放出しながら、アルコールを蓄積し、糖分とのバランスを調整するのです。これは外からのエネルギーによって変わるのではなく、自らが発酵を継続することによって、温度を保ち、行き過ぎもせず、不足することもなく、同じような味わいのぶどう酒になっていくのです。

私たちの時間、人生の中に突如踊りこんでくる「神の国」。それまでのように自らの努力によって手繰り寄せるのではなく、イエスの招きに応じる人は誰でも、「神の国」に入ることになる。「神の国」とは「神の支配されるところ」とも訳することが出来、「神の生きて働く現実」とも解釈できる。イエスとの出会いによって神の生きて働く現実に触れることになる。

新しい時代は新しい生き方、まったく別に生き方を要求するのである。メシアの時代はすべての物事が新たにされることを意味する。これはクロノスという時計の針が刻むような時間軸の生活と同時並行的にカイロス神の時間の生活の始まりを意味する。誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れるものはいない。革袋が裂けてしまう。神の国とはこのように、力に満ち、新しいものなのである。言い換えるならば、時間的な新しさというよりは、質的な新しさとでも言うべきであって、私たちの周りにはなかったものであります。自分中心、言い換えると人間中心的な考え方から神中心的な考えに変わるのであります。

ライホールド・ニーバーが「神よ 、変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」と説教した。これはまさに、クロノスとカイロスの置き換えを強調した言葉であることに気がつくのです。時間的な新しさから質的な新しさへ、2011年をはじめるに当たり、新しいぶどう酒が新しい革袋を要求するように、変えられた新しさに対応する器を、心備えを用意することから始めたい。



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