説教

2010年12月26日

聖家族の逃避行
土橋修


マタイによる福音書 2章13-15


クリスマスはローマ時代の冬至祭に、とって代った 祭りと言われます。昼は太陽が最も低く、夜は最も長く暗いと言われる冬至の時季に、主は「異邦人を照らす啓示の光」(ルカ2:32)として、この世に生まれられました。「保育器の青い光や冬至の子」という句があります。正にイエスは「冬至の子」そのものです。

このイエスとその一家に、殺人鬼ヘロデ王の手が襲いかかるのを、ヨセフは天使のみ告げで知らされ、急ぎ一家はエジプトへと旅立つに至ります。

彼ら一家を「聖家族」と呼ぶのに、誰も異議を申す人はおられません。でもヨセフについては、マリアの美しい信仰とその人格に圧倒されてか、彼の人物像はさほど、話の種になりません。逆に中世時代の宗教劇や聖画などに表現されるものは、全く逆にヨセフは愚かな道化者扱いされています。

例えば降誕の場面で、居眠りするヨセフ・祝福を疑うかの顔・片隅で悪魔と言を交わす姿の男・母と子から顔をそむけたり、光の場面からはずれた片隅にうずくまる男としての、ヨセフの姿が画かれるのです。宗教劇の中では、言うもはばかるような表現で、ヨセフを茶化したり、貶しめる表現も多々あるようです。

しかし、マタイは「夫ヨセフは正しい人」と言い、「ひそかに縁を切ろうと決心した」と(1:19)、その心のうちが伺えます。「正しい」とは律法に忠実に生きる姿を表すものです。レビ記・申命記によれば、人の目にはマリアの受胎は、石打の刑に当り、死をもたらすものと見なされるのです。ヨセフは法的に正しくあろうとすれば、マリアを訴え出ねばなりません。法的にそれにより、我が身の潔白を晴らすことができます。しかし、彼のマリアへの愛の心は傷つきます。彼の心は両者の間に苦しみます。苦渋の選択は「ひそかに縁を切る」以外に道はないと出たのです。神は彼の心中を見抜き、事の次第は聖霊による受胎と示し、彼もまた、神の意に従うことを決心し、これを受け入れました(1:18〜24)。ヨセフが「正しい人」であったということは、このような苦悩の中で、律法を文字によらず、心(愛)によって読み取った人ということではないでしょうか。

クリスマス後日譚としての「エジプト逃避行」は続きます。ヘロデの死ぬまで、予言者ホセアの「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という日まで、即ち神の時が来るまで、聖家族はこの逃避行を神による迂回路として、従順に歩み続けます。ヨセフは相変わらず黙々とロバの手綱をとって。

ヨセフは中世の人々に愚弄され、一般の教会の人々にも余り注目されませんでした。しかし彼の心の苦悩と、その後の黙然たる生き様には、何か心曳かれるものがあります。語らず言わずの姿の中に、強い信仰が、神の道への確たる信頼をもって、彼はロバの手綱を曳き、神の時を待ち望んで逃避行を導いて行ったのです。

「聖家族」の中のヨセフの存在と、その立場を見落としてはならぬと思います。

それと同時に、「聖家族」のヨセフの位置は、もしかすると、世に在る多くの人々、未だ真の神を知らず、そのこころに思い至っていない人々を、彼ヨセフは代表しているのではないでしょうか。彼の苦悩のはじまりは、現実に見える肉の世界と、見えない霊的な真実の世界とのギャップに、気付かされたことにあります。人生の不条理に悩む人々の、苦悩を解く鍵が、ヨセフのうちに秘められているのではないでしょうか。それならば、「聖家族」とは括弧でくくった、三人に限られるのではなく、世に在る凡ての人々―迷える羊―を含めてこそ言える家族なのだと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)との福音は、独り子イエスの御降誕を以て始まる。凡ての人々の救いの世界を目指しているものです。括弧抜きの聖家族が、そこに明示されているのです。現実の世では、いま暫くエジプト逃避行の難儀な迂回路に迷うこともありますが、道は天の御国に向かっていることは、疑いなく確かです。



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