説教

2010年12月19日

合同礼拝説教 神は愛である
梅田憲章


イザヤ書 52章7-10節、ヨハネの手紙一 4章7-15節



むかしむかし、都の丘の上に、りっぱな教会がたっていました。教会のはじに、背の高い灰色の塔があり、塔のてっぺんに、クリスマスのチャィムをならす鐘かあった。けれども何年もの間、この鐘の音を聞いたものはいませんでした。一番値打ちのある贈り物が祭壇におかれた瞬間に、塔の鐘が鳴り出すという、言い伝えがあったのです。
都から遠く離れた小さな村に、ピーターという男の子と弟が暮らしていました。二人はクリスマスイブの礼拝にはぜひ一度行ってみよう、「イエス様に会えたらうれしいねえ! 」と話していました。

クリスマスイブに二人は出かけ、城壁の門から入ろうとしたとき、道ばたの雪の上に、みすぼらしい女の人がたおれているのを見るのです。このままほうっておいたら、こごえ死んでしまうでしょう。ピーターは揺り起こそうとしましたが、女の人は目をつむったままでした。ピーターはいいました。「兄ちゃんは、このおばさんの体をせっせとこすって、温かくしてあげるつもりだ。」「でもぼく、ひとりで教会へいくなんて、いやだなあ。」と弟は、いいました。「兄ちゃんの分まで、なんでもよく見て、よく聞いてきておくれ。兄ちゃんがどんなにイエス様のお誕生祝いにいきたいと思っているか、イエス様はよくご存知に違いないからね。そうそう、だれも見ていないときに、そっと祭壇のところへ、この銀貨をおいてきてくれないか。」ピーターはそういうと、銀貨を一枚、弟の手ににぎらせました。

礼拝の終わり近く、イエス様に贈り物をささげる人びとの行列がすすみでました。この年の一番はこの国の王様でした。王様が宝石を散りばめた冠を脱いで祭壇に置いたとき、人びとは、いっせいにどよめきました。鐘は、こんどこそ、鳴り出すだろうと思ったのです。みんな、一心に耳をすましました。けれども聞こえるのは、やっぱり風の音ばかりでした。聖歌隊が、おしまいの賛美歌をうたいだしたときでした。オルガニストが、とつぜん、オルガンをひくのをやめました。牧師さんは静かにと言うように、片手をあげていました。礼拝堂の中は、しんとしずまりかえっていました。

その時でした。人びとの耳に、かすかに、けれどもはっきりと、美しいチャィムがひびいてきたのです。いままでだれひとり聞いたことがない、澄んだ清らかな調べが、大空のどこかでなっているようでした。
人びとはおどろきのあまり、しばらくは、ものもいえませんでした。けれども、やがていっせいに立ちあがって、祭壇を見つめました。人びとの目にうつったのは、ピーターの弟の、小さな子どもらしい姿でした。弟は、だれも見ていないときに、兄ちゃんから渡された一枚の銀貨を、そっと祭壇の片隅に置いたのでした。(R・M・オールデン作「だれが鐘をならしたか」)

鐘が鳴り出した。教会に集っていた誰にでもその音は届きました。教会に行くことのできなかった人々にも、病気や怪我の人々にも、お年をとっている人々にも、教会から離れている人々にも、教会を知らない人々にも鐘の音は届いたのです。

鐘はいよいよ大きく響きだしました。誰の心にもその音は届きました。あなたのために神のみ子がお生まれになった。と聞こえているのでした。そして、神のメッセージが聞こえた。ヨハネI 4章10節「わたしたちが神さまを愛したのではなく、神さまがわたしたちを愛して下さった。そして、その愛のわざとして、神様が私たちの罪を償うために、御子をお遣わしになりました。そして、いけにえとして十字架にかけさせたのです。ここに愛があります」
自分、自分の兄弟、自分の家族、自己愛のみで、自分自身を絶対化している。他者や隣人への愛を考えることの少ない、まして行動となったら本当に少ない自分。それが、キリストの十字架を見て、初めて神の愛を知る自分に変り出す。「Iヨハネ4:11、 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」

「私たちも互いに愛し合う。」これが私たちの応答であり、クリスマスの宣言なのである。



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