説教

2010年12月12日

キリストを証しするもの
土橋修


ヨハネによる福音書 5章31-40節


先にバプテスマのヨハネは、イエスを神の小羊として、主のメシアたることを予言しました。ただし、主は「人間の証しは受けない」(24)と告げます。本人自らが語る自証も受け入れ難いことを知る主は、「わたしが行う業そのもの」(36)の中に働く、神を信ぜよと語ります。「業」は複数形です。イエスの御生涯を通じて働かれる神の恵みの数々を物語ります。

主は自らの生活とその宣教の働きの中に、神の力と恵みとを証ししようとされるのです。「わたしが父におり、父がわたしにおることを信じなさい。もし、それが信じられないならば、その業そのものによって信じなさい」(14:11)とも、後に告げておられます。

そこで、聖書(旧約)が「わたしについて証しをするもの」と明言されます。そこに示される内容としての「永遠の命」も、抽象的な観念・哲学的理念としてではなく、旧約の歴史を通じ、一個の人間の魂を、罪の苦悩から救い出そうとする、神の深い愛の心を表徴することばに他なりません。その生きた証しが、独り子の受肉と贖罪のわざに込められているのです。

よく引用されるルターのことば「聖書はイエスが眠り給う飼い葉桶である」の通り、聖書の中に、まず具体的な、神の子イエスをしっかりと発見したいものです。

エゼキエルは「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行って、イスラエルの家に語りなさい」(2:8)と記します。この巻物とは私どもにとって、旧新を通じる聖書に他なりません。「食べる」とは、聖書に対する全き信頼と服従のことばです。敢えて「口を開いて」ともあります。神が食べさせて下さるの意が込もります。クリスマスは私どもの祭りではなく、神の犠牲が払われている、神の愛の痛みに対する感謝以外の何ものでもありません。

霊魂を賭け、生活と身体をもって、これを祝いましょう。



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