説教

2010年11月14日

希望のしるし
大坪章美


ルカによる福音書 7章11−17節



 イエス様が、ガリラヤ地方で伝道をしておられた頃のことです。イエス様は、カファルナウムというガリラヤ湖の北側に位置する町を通って、湖の南西部にあたる、ナインという町に行かれました。

 イエス様が、ちょうどナインの町の門に近づかれたその時、町の外の墓地へと向かう葬儀の列に出会われたのです。ある母親のひとり息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。そして、その母親は、"やもめ"でありました。当時、"やもめ"とは、みなし児や、寄留の外国人、と並んで、最も弱い立場の人でありました。何故なら、当時のやもめたちは、法的な権利を持たず、遺産を受けることもできなかったからです。ですから、ひとり息子は、そのやもめにとって、自分の人生を、自分の生活を支えてくれる、唯ひとりの養い手であったのです。行列に混じって歩く"やもめ"は、神に祈ることもなく、また、泣き叫んで悲しみを訴えるでもなく、ただ、悲嘆にくれるだけでした。

 この情景を目にされたイエス様は、この"やもめ"のそばに、近づいて行かれました。そして、「憐れに思い、『もう、泣かなくともよい』と言われた」と言うのです。"憐れに思う"という言葉は、"はらわたが千切れるほどの思いをもって、相手の思いを分かち合う"という言葉ですから、イエス様は、このひとり息子を亡くしたやもめが悲嘆にくれている姿をご覧になって、心を揺さぶられ、自らのはらわたが千切れる程の思いで、この母親の痛みと嘆きを、ご自分のものとして、背負われたのです。

 そして、イエス様は、なんと、進み行く葬儀の列の真ん中へと割って入られ、ひとり息子が死んで横たわる棺に手を触れられたのです。聖書において、「手を触れる」とは、自分が触れるものと連帯する、ということを意味します。イエス様は、死んだ若者の棺に手を触れることにより、若者とひとつになられ、若者が負っていた罪を全て、ご自分の身に引き受けられたのです。これは、旧約聖書、レビ記1章の3節から4節に記されている、「犠牲の動物の献げものをする場合には、奉納者は、主に受け入れられるように、臨在の幕屋の入り口にそれを引いていき、手を、献げものとする動物の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うもの、として受け入れられる」という行為をなされたものでした。次に、イエス様は言われました、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。そうすると、イエス様のお言葉どおり、棺の中に納められていた、死人であった若者は、起き上がって、ものを言い始めたのです。

 こうして、やもめのひとり息子は、母親の手に渡されましたが、しかし、この若者は、いずれ、この世の生を全うした後、結局は"死"を迎えることになるのです。つまり、"死"の問題は、未だ、解決してはいなかったのです。

 この後、イエス様はエルサレムに上られ、多くの祭司長たちや律法学者に引き渡され、十字架の上に死なれて、三日目に復活して下さいました。この、イエス様の十字架上の死と復活こそが、未解決であった"死"の問題との対決でありました。

 イエス様は、やもめの悲嘆と苦しみを、自らの苦しみとされ、憐れみによって、そのひとり息子を生き返らせたように、私ども人間の罪と苦しみとをご自分のものとして背負われ、十字架につけられ、復活して下さいました。まさに、人類に"死"が入り込んだ原因であった、アダム以来の人間の罪が、イエス様の十字架上の死によって贖われたのです。

 これにより、私たち人間は、もはや、"死"の恐怖に怯えることなく、永遠の命の希望に生きることができるようになったのです。いわば、ナインのやもめのひとり息子が生き返らせられたのは、"永遠の命の希望"への先触れ、"しるし"となるものでありました。

 私たちは、もう、"死"の絶望にも支配されることなく、永遠の命の希望のうちに、力強く生きることができるようになったのです。



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