説教

2010年11月7日

わたしは復活であり、命である
梅田憲章

わたしを信じる者は、死んでも生きる。


ヨハネによる福音書 11章17-27節


 ユダヤ人から「人間なのに自分を神としている。」というレッテルが貼られて以来、イエスの「私は神の子である。」という主張とユダヤ人の敵意は深まった。

 マルタとマリアの使いがイエスのもとにやってきて「主よ、あなたの愛しておられる者、ラザロが病気なのです」といった。彼らは、イエスに直していただくことを願うのであった。しかし、イエスは使いの言葉を聞きながら、マルタ、マリアのところには行こうともせず「この病気は死ではおわるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と伝えた。マルタとマリアは亡くなったラザロを前にイエスのこの言葉を使いから聞くのであるが、その意味が分からなかった。

 ラザロが埋葬されて、4日目にイエスはベタニアに現われた。マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」とイエスに残念な思い、悔しい思いをこめて訴えたのであった。そのとき、イエスの言葉がマルタの頭をよぎった。マルタは急いで言葉を足した。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 何が起こるかマルタは知らなかった。今生きているマルタとマリアの上に、イエスは何かをなしてくださるに違いない。このマルタの思いにイエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われた。

 マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。死は取り返しのつかない破滅であり、最終的な決別・別離にも等しいのだ、とマルタはイエスに訴えるのであった。

 このマルタの思いを、私たちは何度も経験する。 死はすべての関係を損なってしまった。もう終わってしまった。これからは彼または彼女なしで生きていかなければならない。そのとき、私たちはそれまでの諦め・感謝と同時に次のステージの身繕いを始めます。「わたしはあなたを信じます。」そして、祈るのです。

 その答を聞いて、イエスはマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」といわれた。

今、私たちが信ずるイエスが「復活」であり「命」です。復活がいつくるかわからない未来の終末の時の復活ではなく、永遠の命が未来のあるいは、死んだときのものではなく、いずれも今のものである。

 わたしは復活である。私を信じれば、肉の生命が滅んでも、復活の時を持ちつづけることができる。

 私は命そのものである。生きているうちに私を信じれば、肉の生命の上に永遠の命が心に宿る。だから、肉の生命が滅んでも、永遠の命は輝き、生き続ける。というのです。イエスが「終末のときに、死んだ時に、与える存在」から「今も、共に生きる存在」に変化したのです。 そしてマルタに問いかけるのです。「あなたはこのことを信じるか?」マルタは、「はい信じます。あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであり、わたしたちと共に生きていてくださることを信じます。」と答えるのでした。

 律法が与えることの出来なかった永遠の命をイエスは今、与えようとされる。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」なのです。

 私たちが生きている今、永遠の命を得て、肉の命と人生を共に照らすことが出来るのです。

 もしお互いが永遠のいのちを共有するのであれば、その愛する者と過ごした時間、空間は、愛する者が死んだ後も、変化することはありません。永遠の命は生き続けるからです。愛する者と出会えたこと、共に生きた過去の時間と空間が与えられたことを共有するなら、その人との思いを携えた未来を始めることが出来るのです。永眠者記念礼拝は過去を思い出すことだけではありません。永遠の命を共有する私たちが、未来を共に歩むことを改めて決意するときなのです。





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