説教

2010年10月31日

キリスト・イエスの素晴らしさ
土橋修


フィリピの信徒への手紙3章1-11節


冒頭の「喜びなさい」の勧めに対して、続く2節目の出だし「あの犬どもに注意しなさい」の警告には、度肝を抜かれ、戸惑います。しかし、美しく喜ばしき教会の内部にも、現実的な陰の力が忍び寄ります。ここで犬と呼ばれたのは、律法的なことを主張するユダヤ人キリスト者を指しています。福音信仰を力説するパウロにとって、彼らの言は今さら何をか言わんやで,彼は怒りと悲しみを覚えたからです。ガラテヤ書でも同様のことがありました。(1:6−7)。この言の厳しさはイエスの思いに通じるものです。主はもっと激しく「律法学者・ファリサイ人ら」を非難しています。(マタイ23章)。

ところで、本日10月31日はマルティン・ルタ−による「宗教改革記念日」に当たります。彼の宗教改革の導火線となったものは、ロ−マ法皇率いるカトリック教会内部の、律法化儀礼化された信仰の逸脱でした。中世以来の悪習に気づいたルタ−は、自らの神学・神父・修道士の立場を超えて、聖書に基く信仰の本義に立ち帰ることを訴え、あの「95ヶ条の抗議文」を以って、法皇並びに凡ての信仰者に、真の悔い改めによる「信仰義認」の救いを知らしめたのです。即ち、信仰義認・聖書主義・万人祭司主義の三つの立場に立つ、宗教改革運動はこうして起こりました。聖書テキスト(2−4)は「割礼」という肉にうけた「切り傷」にすぎないものを、信仰と軽率に言う勿れと警告します。次いで「神の霊による礼拝」「キリスト・イエスを誇る信仰」を持つ自分たちこそが、真の信仰に立つのだと宣言します。その上であらためて、彼は自らの出自を明らかにします。先ず、自分にも「肉の誇り」はある。その点で「律法の義について非の打ちどころはない」と、いささか度の過ぎた高慢ぶりが気になります。しかしそれは己を誇るのではなく、次に来る「キリストの義」の素晴らしさをアピ−ルするための、逆転の発想なのです。確かに彼は聖書学者・修道僧として、教会に対して非の打ちどころなき神父でした。しかし、内なる魂を顧みる時、律法的な外見とは異なる、心中の罪の弱さ汚れにおののく自分を見るのです。そして霊なる神、御子イエスを遣わしてまで、この罪を赦し聖めて下さる方の御前に、心から悔い改めざるを得なかったのです。

この時、彼の信仰の価値観が大きく変わり、肉において「有利」だったものは、キリストの故に「損失」と化し、あげくの果てはキリストを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切のものまで、損失・塵あくたと見なすとまで言い切るのです。

「知る」とは観念的・知識的・頭脳の中でのことではありません。それは魂における霊の力として、また生活体験の中の救い主として、キリストを受入れるということなのです。「わたしの主」とわたし個人の主観が強調された、力強い信仰告白がその証です。我と汝(神)の対話的密接な関係が告白されています。法皇や組織の権力を寄せつけない信仰の世界がそこに見られます。

ルタ−の宗教改革の精神を私たちはここに見るのです。それはルタ−個人の発見ではありません。ルタ−も聖書主義を唱えます。その聖書(イエス−パウロ)を通して「信仰義認」は立証されているのです。肉の価値を捨て切り、全き神の義に与る救いの告白こそ、人生に私たちが選ぶべき、最高の価値というべきものなのです。

ルタ−を熊野義孝先生は「プロテスタント的人間」と呼びました。「人の義」ではなく「神の義」(神がキリストを通して与えて下さった「キリストの義」)を忘れてはなりません。(ヨハネ3:16)。「先の先」、先先の先、神の愛」はわたしが念ずる「わたしの主」の信仰です。各自が「万人祭司」の信仰に立つことが宗教改革の心です。そこに「キリスト者の自由」も生まれます。プロテスタント的人間ルタ−を偲び、パウロの信仰義認の素晴らしさをも味わいたいものです。



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