説教

2010年10月17日

異邦人の救い
傳 英二

イエスはこれを聞いて感心し、したがっていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』


マタイによる福音書 8章5-13節


主イエスは大勢のユダヤの人に愛を持って信仰に生きることを語って聞かせてくださいました。それは、ユダヤの人たちが神様に選ばれた民であったからです。しかし、この人たちは主イエスに興味を持ちましたが、救い主であると信じることは出来ませんでした。主イエスは、神の民の中に真の信仰を探し出すことができなかったのです。

ところが主イエスは道で出会われた百人隊長に真の信仰を見つけ出されました。この百人隊長はユダヤ人ではありません。ユダヤ人からすれば、異邦人と呼ばれていた人です。この当時のユダヤ人の社会は、律法によって規定された大変視野の狭い社会でした。百人隊長は、「神に選ばれた民」に数えられていない人でしたから、イスラエルの人々の目には、「信仰」と言う言葉から一番遠い者と見られていたのです。しかし、そのような人に主イエスは、信仰を見つけられたのです。

百人隊長は、主イエスに向かって真直ぐに進んできました。まず何よりもこの人は、主の御心の下に立ち、主イエスを求めて歩もうとする姿勢が、見られます。この姿勢こそが、信仰の応答の始まりです。

百人隊長はこの世の権威に仕え、自らも権威を行使する立場にありました。しかし、彼は僕の苦しみに対して、自分が持っている力では何の役にも立たない現実を知らされました。彼は、百人隊長の権威を棄てて一人の人間として、主イエスの前に進んで出て行きます。

主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われますが、この主イエスの御言葉に対し百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えます。そしてさらに「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と答えます。

なぜこのように言ったのでしょうか。まるで、自慢をしているように聞こえます。この百人隊長は、自分のようなものでさえ、権威を持たせられていることに恐れを抱いているのです。しかも、自分が持たせられている権威では僕の病を癒せないことを知らされるのです。そして、この人は、主イエスにこそ真の権威があることを見て、主の前に訴えるのです。

真の権威を持つ主であるあなたが一言おしゃってくださればよいのです。あなたがそのような権威に生きる方であることを信じます。そう言って主イエスの権威のもとに立つのです。
私たちも仰生活の中で、主イエスに「御心でしたらこうしてください」と祈りますが、「御心でしたら」と言うときは、自分の疑いも迷いもみんなひっくるめて、主イエスに全てを委ねて、その御心のもとに立つことです。それほどの、深い徹底的な信頼が、真実の信仰ではないでしょうか。それ故に主イエスは目を見張って「ここに信仰が見つかった」と言われるので。

さて、百人隊長が僕の病を抱え込んでいたように、私たちもまた病を負って生きています。自分の生活の中で、弱さ、弱点、問題、悩み、不安そういうものを持っています。

今日の聖書が示していますように、そこから出て行くことが大切なのです。主イエスの前に進んで出て主の御心に対して、自分の判断、基準を捨てて、「御心のままに癒してください」と祈ることです。これが信じると言うことです。主イエスは、そのような信仰を私たちに求めておられるのです。



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