説教

2010年9月12日

見つめられている私
大久保照


ルカによる福音書19章1-10節



その日は、エリコの徴税人ザアカイにとって忘れ得ぬ日となった。

彼は嫌われ者であった。税金を集める仕事は、外国の支配者に仕え、同胞イスラエルを苦しめる恥ずべき職業と見なされていたからである。しかしその反面、権力者側に立つ見返りとして、十分な報酬と数多くの権益とを手に入れたであろう。目に見える豊かさを問うならぱ、それなりに満たされていたと言えよう。

それ故に、彼はあえてその職業を選んだのである。人生は甘くない。愛する者との日々の生活の安定にこそ人生の目的を見るべきである。そのためには、人々の中傷やさげすみなど覚悟していたであろう。人生の損得勘定は合っていると思われたからである。

しかし、富を手にしてもなお満たされぬ思いを無視することが出来なかったのではあるまいか。神の栄光を傷つけた「罪深い者」とよぱれ、選民イスラエルから除外された悲しみは消えなかった。周囲の人々からの蔑視ならぱ富の誇りによって見返すことが出来よう。しかし、主なる神のみもとからの追放は、取り返しのつかない疎外感の中に追い込むのである。人間の裁きは限られた時の中の問題にすぎないが、神との関わりは永遠である。 「もう引き返すことの出来ない道を歩み出してしまった」という悔悟が、ザアカイを苦しめていた。

ナザレのイエスの到来は一抹の希望の出現であった。この頃、ガリラヤ地方の同じ徴税人であったレビが、イエスによって受け入れられ弟子に加わったという評判が既に徴税人仲間には知られていたであろう。徴税人を汚れた人間として差別しない、新しい信仰を説くイエスをむしょうに見たくなった彼は、目分を排除しない「ひとりの人」を見るために木に登ったのである。 「ひょっとしたら、人生をやり直すのに、まだ間に合うかもしれない」。微かな希望が彼の心に芽生えたのかもしれない。

その時、主イエスは、木の下を通り過ぎることなく足を止め、頭上を見上げ、ザアカイの名を呼んだ。なぜ、キリストは多くの人々の影に隠れている者の名を御存知なのか。なぜ声を掛けられたのか。そこにこそ恵みがある。神の眼差しは、世界の片隅に生きるどんな小さな者をも見落とし給わないのである。私達は無名の群衆の一人ではなく、御子から直接名指しで呼び掛げられる、選はれた人間である。

御子の呼び掛けは「共に生きる人生」への呼び掛けであった。そしてその人生は、ザアカイが望んだものではなく、主なる神御自身の御計画であり、変更不可能な絶対的な決定であった。それは歴史の初めから定められていた御計画による、いかなる者の介入・妨害も許さない個人的な選びである。私達の救いには、 「どうしても救わなければならない」という神の熱情が込められており、神の御子はただこのためにのみ来られたのである。

ザアカイが夢見た「ひょっとしたら」という淡い期待に対し、「どうしても」という御心が告げられたのである。人間の予想を超える神の愛。それがここに示されたのである。

この時ザアカイは、これまでの人生観の全てを自分から否定し、全く新しい道を進むことを無条件で受け入れた。富を友とし、権力を武器とし、豊かさの中に人生の目的を見て来た人間の変化は、主と共に生きる素晴らしさを教えられたからと言って間違いはあるまい。具体的なことを何一つ言わず、ただ「共に生きることだけを告げる御言葉の豊かさ」こそ、福音のなんたるかを表すものであろう。この恵みの豊かさを味わい、御国を指して歩みだす幸いは、今ここでキリストに出会い、見つめられ、呼び掛けられた全ての者に与えられているのである。



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