説教

2010年8月15日

キリストの平和の中で
梅田憲章

キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。


コロサイの信徒への手紙 3章12-17節


「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている。」この言葉はユダヤ人のものであり、ユダヤ人は神の選民と自称していた。パウロはそのイスラエル民族を示す言葉を異邦人に与えることによって、
1.神様の選びが地の果てにまで及んでいること。2.選びの意味を変えて、無きに等しいものが選ばれているというのです。それは神様の前で誇ることがないようにするためであります。3.「聖なる者」とはこの世と区別されたものという意味であり、神様に所属するものであるという意味です。4.「愛されている者」とは、わたしたちは神様の愛の思いの対象であることを示します。今も愛を受けているのです。神様はこのようにすべての主導権を持っていて、わたしたちは受身であります。

パウロはついで、人間と人間の関係について語られます。まず、「憐れみの心」です。イエスは心の病の人、病気の人々、からだの不自由な人々をごらんになり憐れに思われます。イエスを信じる人々は、役に立たない人とみなされていた人々、病気の人々、身体や精神に障害のある方、子供、婦人、老人などに一人ひとり人間としての権利を与えてきたのでした。さらに「慈愛」とは思いやりのあるやさしさを示し、「謙遜」は、誇るものは神を誇る、傲慢の対極の感情である。「柔和」な人とは、神様の思いを自分の思いの中に受け継いでいる人で、自己を制御できる人です。「寛容」とは隣人に対して、決して忍耐を失わない精神であります。わたしたちは、自分を棚に上げて、愚かさ、軽蔑、悪意ある態度に怒り、絶望、恨み、批判を感じます。寛容はそれらを、神様が私たちの態度に忍耐されることを覚えて、忍耐することです。寛容こそ、神様を反映させるものなのです。

この人間同士の中で求められている事柄はその気になれば誰でも身につけることが出来るものです。

神と人間の関係、人間と人間の関係にパウロは「愛の完全な帯」を付け加えます。愛はすべてのキリスト者を完全に、そしてひとつにする結合力なのです。愛がなければ、義務の性格を強くし、神様への感謝の気持ちを失わせるのです。神様の愛がすべてのキリスト者を結び合わせるときに、愛は傷つけ、傷つけられることのない交わりを築き、壊され、壊れることのない交わりへ人々を結びつけるのです。

そして、最期にキリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。キリストの平和を、あなた方の心の審判員としなさい。何か問題が起こり、心が揺れ動く時、それに決定を下す時には、イエス・キリストの平和を審判員としてみて御覧なさい、というのです。

イエス・キリストの平和が私たちの関係に宿るように心がけなさい、というのです。

このような教会の上に、あらゆる種類の平和が築かれていきます。神と人の平和が保たれて、人間の心の内なる平安が生まれます。キリストの平和が心のうちに住むとき、隔ての壁・差別の壁が取り除かれていき人間相互の平和が築かれるのです。

平和を脅かす動き―暴力と報復―は世にあふれています。国々のレベルで、集団と集団の間に、そして個人の間にもあふれています。自己中心的な考えに基づき、自分だけの平安・平和を求める動きに対して、わたしたちはキリストを堅固な基礎とする変わることのない平和を求めていくことを求められているのです。私たちは過去に目を閉ざさず、現在に行動し、将来を神の求めておられる平和を築き上げることを神様に期待されているのです。

私たちは、平和を創り出す者、実践する者へと押し出されていくことを期待されているのです。私たちはいつもイエスに助けてもらって行動し、私たちの話す言葉も、いつも主が聞いておられると知って、話すようにわたしたちはまねかれているのです。



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