説教

2010年8月1日

永遠のいのち
梅田憲章

信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。


ヨハネによる福音書 6章41-51節


イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」といったとき、それを聞いたユダヤ人たちの考えはこうでした。

1.大工の子供としてナザレで育ったイエスが、どうして神からの特別の使者であるか理解できなかった。
2.彼らは仲間内で話し合い、イエスと対話したのではなかった。納得するのは同じ意見を持つ者の中であり、神が考えておられることを知ろうとしなかった。
3.彼らはイエスのなさったしるしを見、言葉を聞いたが、学ぶことをしなかった。彼らはイエスを信じるに足るしるしを示すべきである。と主張した。イエスがそうなさらないことを批判するだけだった。

私たちは常に、となり人に支えられ、支え、影響を及ぼしあい、共同体を形成して生きています。

しかし、私たちは本質的に一人です。一人きりになって考えてみると、自分が判断の主体となり、自己中心になっていることをまず誰でも知るでしょう。自分の側で、なにかある行為をしなければ、神を信じることが出来ない、永遠のいのちに到達できないと考えていた。自分に気がつくのです。

人が神と出会うとき、それは一人きりになって、自分のすべてを見通した時であります。

自分が小さく、無力で、過ちを犯しやすく、自分の支配できる時間は短いということを知れば知るほど、神は全知全能であって、大きく、神の時間は長く、自由であることに気づき、初めて、自分に係わりを持って臨んでくる神を自覚するのです。

神様の選びとは
1.「神様に選ばれた人々だけが、イエスの許に行くことができる。」私たちは、教会に行く、イエスの許に行くことを自分の主体的な行動と思っている。けれども、神が主体である、というのです。イエスを信じて、イエスの許に来る人はイエスを通して神の存在を知り、神は復活のいのちをおあたえくださる。これこそが神の愛であるというのです。

2.「信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」イエスを信ずる者は、永遠のいのちをもつ。イエスこそがいのちのパンであるから、洗礼を受けたとき、聖餐式によってパンを食したとき、一人ひとりに永遠のいのちが与えられるのです。これこそが私たちに伝えられる神様の意志なのです。

3.神は、世界を創造されたとき、アダムがいのちの木からもとって食べ、永遠に生きるものとなることをおそれ、それを赦すことができず、エデンの園から追い出した。神はその罪を持つ人間をそのまま赦すことはできなかった。神が人々にいのちを与えるために、罪なきイエスが人の罪を背負って十字架上で肉を裂き、血を流すことが必要であった。この犠牲の上においてのみ、私たちは罪を赦され、「永遠のいのち」への道が開かれた。これは私たちを受け入れる神の御心なのです。

神がすでに私たちを選んでいてくださる、のですから、私たちは、一日一日自分を見つめ直すときをもつことによって神と出会うことができます。

「神が共にいてくださる」そのことを知ることによって、私たちは、自分中心の世界を神中心の世界に変えることができます。

そして、永遠のいのちを与えられることにより、兄弟姉妹の交わりが出来るようになり、時間を越えた交わりが可能となります。もしお互いが永遠のいのちを共有するのであれば、その愛する者と過ごした時間、空間は、愛する者が天に去ったとしても変化することはありません。愛する者と出会えたこと、共に生きた過去の時間と空間が与えられたことを感謝するなら、その人との思いを携えた未来をはじめることができます。愛する人を神にゆだねた人は、残された自分が歩む道も神に委ねて歩むことができるのです。墓前祈祷会は過去を思い出すことだけではありません。未来を共に歩むことを改めて決意するときなのです。



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