説教

2010年7月18日

新しい教会の始まり
土橋修


使徒言行録 11章19-30


「キリスト教の名はエルサレムから起こったが、キリスト教の実はアンティオキァ教会に稔った」と言われます。イスラエルの地中海岸を北上し、シリヤに至ると・小アジア(現トルコ)地中海沿いの東端とかち合います。そこにアンティオキァ教会は位置します。その北にアレキサンドレツタ湾があり、アレキサンダー大王の東征の後、この町が生まれたという、古い歴史の証がある町です。交通の要衝と貿易で繁栄しましたが、他方快楽の町ともなり、功罪半し「ローマの都さえ、アンテイオキァの悪風に染まる」との警句もあります。しかし、学問と文化の町でもあり、キリスト教の伝道も始まっていました。但し、当初の伝道対象は専らユダヤ人に限られていました。次第にギリシヤ語を語る異邦人も増えるにつれ、教会は異邦人伝道の方向に向かい、その成果も目覚ましくなりました。エルサレム教会はそこで状況査察使として、バルナバを派遣します。彼の名は(4:36)に紹介済みです。彼は暫し滞在して応援するうち、協力者の必要を痛感し、かっての迫害者で回心したサウロを思い出します。そこで彼を探し出しに走り廻り、見出してこの地に連れ帰りました。バルナバとサウロの連携が成り、その一端が27-30節に見る、愛と奉仕に富む教会活動を生むのです。

回心後のサウロの消息は、余り定かではありませんが、ダマスコやエルサレムに出て、伝道開始をするのですが、過去の悪印象が災いして、信徒仲間に受け入れられず、果ては彼の命まで狙われる危険が生じ、彼は遂に身を隠すように、遠くアラビアまで落ち延びて行ったようです。バルナバが「サウロを捜し、見つけ出し、つれ帰った」という捜索の裏には、サウロの回心を理解し、その労苦を思いやり、猶且つ、サウロの信仰の真実を受け入れようとする、パルナバの寛容と信頼の姿勢がうかがわれます。彼が「慰めの人」と呼ばれる「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちた人」との評判を得ていたことがよく理解されます。

この二人を指導者と仰いだ教会の弟子たちを、町の人々は「キリスト者(クリスチヤン)」と呼び始めました。当初それは軽蔑を込めたあだ名でした。後皇帝ネロの迫害下でペトロの告白があります(ペテロ第一、4:16)「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」と。このあだ名は今に至ってむしろ素晴らしい呼び名と変わりました。先達たちの高貴な証が、その名の質を変えてくれたのです。呼び名より人生の実質を以て、良い証をたてたいものです.ピューリタン・メソジスト・クェーカー等の呼び名がその良い例です。何れもあだ名に始まりましたが、今は敬意の念が込められ呼ばれるようになりました。

大切なことは「キリストに従う者、倣う者、属する者」として、「イエスこそ真のメシヤ(救い主)たること」を証しすることです。アンティオキァ教会の人々は、一徹に[イエスこそキリスト」を信仰したのです。外圧に負けなかったのです。

サウロは後「私が知らせた福音は、人によるものではない。人から受けたものでも、教えられたものでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたものです」(ガラテヤ1:11〜12)と言いきっています。また「わたしは福音を恥としない。それは初めから終わりまで信仰を通して実現された」(ロマ1:16)とも、宣言しています。アンティ才キァ教会のキリスト者は、律法の枠を打ち破り、異邦人を受け入れ、主イエスを信じ、主に立ち帰った者たちでした。それが異邦人伝道最初の教会として輝いたのです。教会は長い歴史と、世界的広さの中で様々な内的・外的な戦いを経過して来ました。むずかしい教理の問題もあり、困難な民族的・文化的な克服もありました。しかし、本質的な福音の一致で、歩みを揃えねぱならぬと思います。

W・クラーク博士は札幌農学校のキリスト者学生団を、「アンティオケ教会」と呼んだそうです。札幌に在る私たちの教会も、そう呼ばれたいものです。



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