説教

2010年7月11日

選びの器・サウロ
土橋修


使徒言行録 9章1-19


原始教会に対するサウロの迫害は、ステファノの殉教によっても止まず、フィリポのサマリヤ・ガザヘの伝道展開なども逆作用してか、サウロの脅迫・殺気の意気込みは、益々燃えました。その追撃の手は、遂にダマスコにまで及ばんとしています。

しかし、ダマスコ近郊でサウロの計画は一転します。彼は幻のイエスを光の中に見、目がくらみ地に打ち倒されました。この間に彼の心に回心が起こり、その歴史的記録がここに残りました。光の中でイエスとの問答が交わされ、彼は自分の行って来たことが、イエス本人に対するものだったことに気づかされました。一方、人々によって町に入った彼は、幻のイエスが導かれたアナニヤを通して、祈りの中にサウロはイエスの名を伝える「選びの器」と紹介されます。その意味は、神によって予め定められていたもの、隠されていたものが、今始めて姿を現すということです。彼自身の自己紹介に(ローマ1:1)「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と述べている通りです。

この回心記録は極めて神秘的で、人間の経験や判断の域を超え、深い本人自身の内的体験によるものです。外部からの力関係や評価によらぬ、霊的召命が斯く告白させるものなのです。わたしたちは彼のこの信仰告白を基として、以後の彼の宣教を学びとらねばなりません。彼の出自・家柄・能力・知識等によってではなく、あくまでも彼を選び召された神の聖旨に従って行くべきなのです。

回心記では目が見えなくなり、後「目からうろこのようなものが落ちた」と言う話に至ります。これに関して、わたしなりの一つの思いをお聞き下さい。先にステファノの死に際し、彼はr眠りについた」と告げられました。石打ちの残虐行為にもかかわらず、その死を眠りと表現されたことに、深く心がひかれていました。それに対してサウロはその夜安眠できたのだろうかという、疑念が心に浮かびました。実際には彼の心は、安眠どころか益々迫害に意気込んでいたのです。ステファノの眠りはサウロの心を転倒させ、眠るどころではなかったのです。後同じく回心記を繰り返したところでは(21:11)「激しく怒り狂い」と語っています。彼の心は不安と疑念に戦くばかりだったのです。その反動がダマスコ追撃となったと言うべきなのです。幻のイエスの光に打たれ、彼の目は暗くなり見えなくなったこと、また「目からうろこのようなものが落ちた」ことは、彼の心中に働いていた、自らの信仰観、価値観に対する不安と疑念が、崩壊し去った心理状況を物語っているのではないでしょうか。

「主を愛する者に、眠りをお与えになる」(詩127:2)を主題にした、スポルジョンの説教「安眠の福音」は、次のような眠りを挙げています。神は愛する者に奇跡の眠り、良心の平静な眠り、平安な霊の眠り、「幸福な死の眠り」等々です。ステファノはこの最後の「幸福な死の眠り」を得たのでしょう。

回心記の中で栄光のイエスに、サウロは「主よ」と思わず呼びかけています。それは恐らく彼の心中深く、闇の中に埋もれていた苦悶の叫びではなかったでしょうか。そして其の後、主は「イエスの名を伝える苦しみ」(16)を、更に彼に負わせます。しかしこの「イエスの名のための苦しみ」は、これまでの反逆と迫害のための苦しみとは、全くその質を異にするものです。むしろ「嘗ての有利は、キリストの故に損失と見なし、主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさに、今では他の一切の損失と見なす」(フィリピ3:7〜8)という世界に切りかえられるのです。

「目からうろこ落つ」の人生観は、こうした価値観の一大転換を物語るものなのです。洗礼の際の感激と喜びに与ったキリスト者の心境は、正に「目からうろこ」の心境ではなかったでしょうか。「あるものの胸に宿りしその日より、輝きわたる天地(あめつち)の色」の感激は、サウロの信仰の戦いの結果得られた喜びにあい通じるもの、それに尽きるものです。



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