説教

2010年6月27日

「主の言葉」を信じる。
梅田憲章

イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。


ヨハネによる福音書 4章43-54節


イエスは実り豊かなサマリヤの滞在を終えて、ガリラヤのカナという町を訪れました。そこから、600mほど下り、東に27kmほど離れたカファルナウムにある一人の高裕福な役人がいました。この役人は息子の死に直面し、心は苦悩し、動揺し、自力ではその限界を乗り越える事ができずにいました。そこで、
(1)跡を行う、しかしユダヤ人の大工に過ぎないイエスの許を訪れる決意をし、イエスと出会ったのです。
(2)役人はイエスの「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という拒絶の言葉に絶望せず、さらに熱心にイエスにカファルナウムへの来訪を願い、
(3)イエスが語られた「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」という言葉を信じて、行動しました。
(4)役人は見ずして、信じる者になったのです。

私たちがキリストの与えられる助けを、本当に欲するならば、この役人の話は良い例を示すでしょう。

この役人は「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてください。」という当初の期待を拒絶されました。彼ほどの権威があれば、一瞬、なぜと思い、不安に満たされたのではないでしょうか。イエスはなぜ彼の願いを拒絶するのでしょうか。

苦しみ、悩みに遭遇したとき、イエスとの出会いは、次の二つの立場を明確にします。ひとつは、イエスに願うことすら自分の力と信じているという立場です。「出来る限り私はやってきました。もうこれ以上出来ません。この出来ない部分を神様助けてください。」この場合、イエスの拒絶にあったとき、イエスが自分の願いを満足させてくださらないという不信と離反の念にうずくまることになります。もうひとつの立場は、イエスの権威に打ち伏せられて、今までの自分を脱ぎ捨て、すべてをその御手にゆだねる、というものです。イエスにすべてを委ねた者は不安と疑惑の中に置き去りにされることはありません。ひとたびこの信仰の冒険を敢行した者には、イエスはその信頼が決して誤っていなかったことを結果によって明示して下さるのです。

私たちは、イエスの権威ある言葉「見ないで信じなさい。」に接するまで、自分の判断を絶対として生きています。すべて自分の計画を自分の力でおこなうことにより、何とかできると考えています。そのこと事態はすばらしいことであり、多くの人は、このように自分の責任で自分の人生を切り開いていくことを目標としています。

しかし、私たちが自分の能力、ちから、権威、誇りそれらを総動員しても、解決できない状況に追い込まれたとき、今までの力ある歩みが途絶えてしまうとき、こう思うのではないでしょうか。「神様どうして私をこんな目にあわせるのですか。私はまじめに歩んできたのに、なぜこんなことで報いるのですか。私の出来ないことを助けてくださるのが神様ではないのですか?」神からの声は聞こえず。神の拒絶の意志が伝わります。そして、その神がなお私たちに語りかけるのです。「私の言葉を聞きなさい。」と。

聖書にはこのようにも書かれています。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(コリントの信徒への手紙二 4:7)私たちが自分の力と思っていることさえ、それは神から与えられるものなのであるというのです。

私たちは、私たちの願いをいつでも聞いてくれる神と共にいるのではなく、神が私たちと共にいてくださる、神が見守っていてくださるということを、いつもおぼえていなくてはなりません。

私たちは聖書を通して、数多くのみ言葉を愛しています。そのみ言葉を信じて、行動に移るとき、私たちははじめて、この行動を引き起こす力が自分の中から生まれるのではなく、神から与えられていることを悟るのです。



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