説教

2010年5月30日

来てみてご覧なさい。
梅田憲章


ヨハネによる福音書 1章43-51節


爽やかな朝の光を全身に受けて、ガリラヤを進むイエスはまず、フィリポに出会われます。そして「わたしに従いなさい。」と呼びかけ、彼は十二弟子の一人となったのです。フィリポは友人ナタナエルに出合い、「イエスこそ、旧約聖書に預言されている人物である」と熱く燃える思いを伝えるのでした。ナタナエルは当惑します。フィリポは、ナタナエルにイエスに直に会えばすべてが分る。「来て、見なさい」と言うのです。

ナタナエルは、疑いながらもフィリポの熱意に、「それほど言うのなら会ってみようか」とイエスに近づいていきます。ナタナエルを見たイエスは「この人には偽りがない。」と言われます。この人は真実であると思ったことにはそれを受け入れる心の柔軟性があるというのです。ナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルを救われる者の一人としてじっと見守っておられたというのです。ナタナエルはイエスに出会い、「救われる」とは、「自分が神に選ばれている存在であることを認めること」。そして、それは「無条件に与えられる神の恵み」であると悟るのでした。ナタナエルは決意していいます。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

今日の聖書を通して、
(1)フィリポはイエスに出会い、声をかけられ、イエスに従います。フィリポのすばらしさは完全でなくても、疑問があっても、自分の言葉で、自分の分っている範囲のイエスを証ししたことにあるのです。
(2)ナタナエルと対話したのはイエスです。迷いつつも来られた人に、出会ってくださるのはいつもイエスです。豊富な知識、経験、常識に基づいてイエスの元に来たナタナエルは、知ろうと思ってきたのに知られているということにびっくりするのです。

このイエスとの出会い、それは現代では「礼拝」のときといえるでしょう。この礼拝に来られているすべての人は、フィリポ的であり、ナタナエル的であり、来られた方はすべてがこの礼拝で親しくイエスに出会うからです。現実には、出会いを妨げるいろいろな要因があります。しかしそれは、神の側の状況ではなく、わたし達の側の状況です。この礼拝はイエスの招いてくださるイエスとの再会の場であり、すでに私達の願いは聞き遂げられているのです。イエスがまず私たちと共にいてくださり、声をかけてくださるのです。したがって、礼拝はナタナエルのように、「イエスの声を聞く」こと、心を柔軟にしていることが大切です。

イエスの声に関して、ラーゲルレーヴの「ムネアカドリ」物語を思い出します。「赤い胸毛を祈り求めていたムネアカドリはある時、巣のほうへとやってくる人々を見るのです。『十字架に就けられた一人の人の額にはイバラのトゲが刺さつている。」「あの人はほんと優しい目をしている。あの人の苦しみをみているとなんだかこの心臓を射ぬかれたような気がする。」小鳥は同情すると、巣をあとに空中に飛び立ち、十字架のまわりを舞うのでした。臆病な小さな鳥でしたが、思い切ってそばまで飛んでゆくと、十字架の人の額に刺さったとげをそのくちばしでて引きぬいたのでした。するとそのとき、十字架の人の血がひとしずく、小鳥の胸に落ちました。しずくはみるみるひろがり、短い柔らかな胸毛をすっかり染めてしまいました。すると十字架の人はくちびるを動かして小鳥に、「ありがとう。おまえのやさしい心がおまえたちに世のはじめから求めてきたものを与えてくれたんだよ。」

イエスは、礼拝の讃美歌、交読文、祈り、聖書の言葉、説教などすべてで語りかけています。そのイエスの心に気づき、イエスのまなざしに答えようとするとき、イエスは力を与え、それを成し遂げる力を与えてくださるのです。そして、そのとき、ムネアカドリやナタナエルのように、私たちが礼拝で待たれていたことを知るのです。イエスの声を聞き、イエスに出会うことをこの年度も追い求めて行きたいのです。



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