説教

2010年5月16日

天に上げられたイエス
土橋修


ルカによる福音書 24章50−53節


イエスは復活後40日にわたり、弟子たちに現れたと、使徒言行録(1:3)にも記されています。これを起点に初代教会の宣教が綴られます。ところが肝心の福音書の方は、ルカを除けばマタイとヨハネにはその記載はなく、マルコは一筆「主は、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(16:16)とあるのみです。

「主の昇天」は分量的には以上の如く手薄です。しかし「使徒信条」のキリスト・イエスの告白には、明確に「天に昇り、神の右に坐し給う」とあり、これを除外しての主に対する告白は、全く成立しないことを私たちはよく知っています。

これについて聖書註解者のバークレーは、次のように三つの要点をとり上げています。
1、それは受肉のイエスの終わりであること。
2、同時に、弟子たちの新時代の始まりであること。
3、しかし、弟子たちは地上でイエスを欠いて活動するのではなく、天に在すイエスと共に宣教するのである。
とのことです。

「昇天し神の右に座し給う」の動詞は現在形です。これはこの出来事は過去の出来事ではなく、初代教会の信徒にとっても、今日の私どもにとっても、歴然とした現在形の事実なのだということを意味します。

「昇天」は宇宙時代の今日でも、真実信仰の事実です。それは物理的な位置の移動ではありません。「神の右」とあるもそれは「神の権威・権能」を意味するものなのです。パウロも次のように証言しています。「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人のうちより甦らせ、天上に於いて御自分の右に坐せしめ、あらゆる名の上に置かれたのである」(エフェソ、1:20-21)と。バルトによる信仰問答書も同様です。「昇天とは復活されたキリストの、いろいろな顕現の中でも、特別にその神的権力を啓示されたものです」と語り、またそれが齎す「二重の益」について、「イエス・キリストは天より下り給うたように、私どもを代表して天に入りました。私どものために天の入口が与えられた保証であり、次に彼は天に在って神の御顔の前で、私どもの仲裁者・弁護者となり給うたのです」と説明されています。

さて、昇天のイエスは「手を上げ祝福され」とあります。今私たちの礼拝終了の時の祝祷は、この主の祝福を引き継ぐものです。昇天は現在形なのです。そしてこの時二人の天使が現れ、唖然と見上げる弟子たちに「主はまたおいでになる」と告げ、イエスが最後に命じられた「エルサレムに留まり、宣教に励め」とのことばを、忘れてはならないと、弟子たちの目を覚まします。彼らはそれと気づいて「イエスを伏し拝んだ」とあります。

ここに今につながる教会の礼拝が始まります。私たちの礼拝は「昇天と着座のイエス・キリスト」に向かって行われているものです。それはまた「再臨の主」を待望する時でもあります。「祈り」は神との対話と言われますが、現実には「昇天」のキリスト・イエスとの出会いです。ヒットラーに抵抗したボンフェッファーは、獄中2年間仲間と礼拝を守り、最後の礼拝を終え死刑執行人に連行されて行く時、彼の最後のことばは「これで終わりです。しかし、わたしにとってはこれが始まりです」というものでした。最後の礼拝をして、いのちの始めたらしめる力こそ本物の礼拝、崇高な讃美の礼拝なのだと思い知らされます。

作家堀田善衛氏がある時ヨーロッパ行航空機内で、となりの婦人に「今、何時ですか」と尋ねられ、ハテなん時と答えるかで戸惑ったという話を随筆で読みました。時差のある機内の時計の時刻は、正に宙に浮いて掴みにくいものです。彼は心落ちついてから、フト西欧で見かける大聖堂の礼拝堂が心に浮かんだと言います。「そこには此の世にはない神の時がある」と気づいたと言うのです。時計はそこにはない。神の時の空間が礼拝堂であり、礼拝そのものなのではないでしょうか。

「昇天」は大変神秘的で、教義も堅く抽象に流れがちです。しかし、現実の主日毎の礼拝は、正に神の時であり、礼拝堂は天の空間なのです。感謝です。



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