説教

2010年5月9日

一番美しい物語
土橋 修

「主はこの母親を見て、憐れに思い、もう泣かなくてもよい」と言われた。


ルカによる福音書 7章13節


「母の日」は米国で始まった「国民の祝日」です。その由来はある牧師夫人の召天記念礼拝に、娘アンナ・ジャーヴィスが、母の愛をカーネーションの花に託して、列席者一同に「母の愛に感謝を」と呼びかけたことにあります。彼女の願いは、単なる母性愛讃美や感謝にあったのではなく、モーセの十戒中の第五戒「汝の父と母を敬え」に拠ったものでした。

十戒の前半(1〜4)は「宗教規定」であり、後半(5〜10)は(社会倫理規定)です。第五戒は両者の繋ぎ目に位置します。つまり「父母への愛」は神の愛を源とし、社会の核である家庭を通じて、一般社会全体の倫理、道徳に及ぶべきであることを、教え取り次ぐものなのです。彼女は「すべての人が神の愛によって、父母を愛する」ことを願ったのです。世界一の母はただ一人です。そしてすべての人は世界一の母を持つ、と言われます。我が母だけでなく、すべての父母、目上長上の人への敬愛の心を、神の愛から学びたいと思います。

さて、「神の愛」と「母の愛」とが絡み合った、「福音書中一番美しい」といわれる物語が今朝のテキストです。ここでイエスが出会った、一つの悲しい葬列が展開します。ナインという町は、イエスの故郷ナザレから南東8〜10kmに位置します。環境風景の美しい町とのことです。しかしイエスと一行が町の門で、思いがけぬ葬式の列に出会います。イエスはいたく心を打たれた模様です。「主はこの母を見て、憐れに思い」とあります。この表現は非常に強い憐れみや同情に用いられ、「深く憐れんで」などとも訳されます。

ところで、ギリシャ哲学の一派のストア学派は、宇宙理性としての神(ロゴス)は、世界に遍在し絶対的存在であって、他の何ものからも影響を受けず、無感動、泰然自若なるものと定義づけます。これに対する神の子イエスの態度は、ストア派の神観に照らすなら、全く相応しからぬ姿に見えたことでしょう。イエスはこの葬列を見て、母と子を思いやり激しく心を動かされました。憐れみの心に満たされました。既に夫を亡くされたやもめが、今はひとり息子を失い頼りとする者を奪われ、二重の悲嘆に暮れているのです。このイエスの心の動きは、神たる資格の喪失なのでしょうか。

パウロは神の愛を持てる者は「泣く者と共に泣け」と教えているのではありませんか。W・ブレークの詩「他人(ひと)の悲しみに」は、次のようにあります。

「ひとの悩みを見て 自分も悲しまないでおれますか。ひとの嘆きを見て 優しくいたわろうとしないでおれますか。……わが子の泣くのを見て父親は泣かずにおれますか。幼な子の呻きを 怖れを 母親は座ったままで聞いておれますか。」

と訴え、最後の結びは こう歌います。

「主は すべての者に喜びを与えて下さる。主は小さな子となって下さる。主は 憐れみある人となって下さる。主は 悲しみと共に感じて下さる。」と。

また或る母の子を思う心の歌を思い出します。

 夜も昼も思い疲れて子よ我は
     遂に病みたり 返れわが子よ。
 悲しみを夜明けの星に告げながら
     ひたすらに子の足音を持つ。
 家出せし子の目にふれよと詠む歌の
     祈りは空し一年を経ぬ。

朝日歌壇に一年間、この三首が投稿されていました。家出息子に呼びかけながら、空しく過ぎた一年を、この母の胸のうちを思いはかり、私も苦しくなります。

神は無感動の方ではありません。神の心が動く時奇跡は起こります。神の憐れみがそこに見られます。

「神がその民を心にかけて下さった」証しが見られます。母を思い、子を思う愛の心は、それ自体美しいものですが、その愛の出ずる源に、神の愛が宿っていてこそ、愛の実の力が働き出すのではないでしょうか。神の愛、イエスの愛を仰いで歩み続けたいと祈ります。



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