説教

2010年5月2日

生きた石、聖なる国民
札幌富丘伝道所応援牧師 相澤眞喜


ペトロの手紙一 2章1-10節


ペトロの手紙の教会論は、新約聖書の中にある教会について語られている文書の中で、最も美しくそして最も包括的な記述の一つであります。これは既に教会について語られたもの、福音書の中にある「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)の主の言葉、パウロの手紙、ヘブライ人への手紙などをもとにして、教会の本質とその機能(働き)について教えています。

この手紙の宛先は1章1節に記されているようにディアスポラのユダヤ人に宛てられていますが、文化的にも宗教的にも、また政治的にも異質的な諸要素が混り合っている多元化社会の中でキリスト者となり教会員となっているわたしたちに宛てられています。

わたしたちは、古い肉につける生活「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨てて」いつも「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳」である神の言葉を絶えず慕い求めなければなりません。この神の言葉が語られ、わたしたちの信仰が養われるところが教会であります。またわたしたち一人ひとりの信仰の成長は教会の成長でもあります。3節の「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」という言葉は詩編34編9節の引用です。詩編で「主」というとき、それは「主なる神」のことですがここでいう「主」は、「主イエス・キリスト」のことです。神の恵みは、主イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちを救い、新しい命へと導きいれてくださいました。この主イエス・キリストの救いの業がなされているところが教会です。宗教改革者カルヴァンは、「教会の外に救いなし」と言いました。

教会は、建物ではなく、「イエスをキリスト」と告白する人たちの信仰共同体です。しかし教会は建物です。それは5節にあります「霊的な家」であります。この霊的な家(教会)の土台(「生きた石」)は、イエス・キリストです。4節は詩編118編22-23節が背後にあり、7節はその引用です。

わたしたちは、「このかなめ石」「隅の親石」「生きた石」の上に、5節「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」とありますように、信仰生活=教会生活をしなければなりません。建物を築くには、大きな石も、小さな石も必要です。またいろいろな形の石が必要です。大切なことは、土台にしっかりと積み重ねられ、互いに補強し合うことです。

わたしたちのような小さな石を、9節では「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っています。何とすばらしい言葉でしょう。こうした表現の中に神の歴史、具体的に神がイスラエル民族を選んで、救いの業をなさって来られた出来事が語られています。その延長線上の中に、神のイスラエルである教会と今のわたしたちがいることを語っています。初代教会の人々は、神の言葉がこの歴史の中で成就していることを証ししています。

「選ばれた民」「聖なる国民」「神のものとなった民」の誇りはどこにあるのでしょうか。それは神が選ばれたという点にあります。それはどこまでも神の恵みであります(参照、出エジプト記19:5-6)。また神の愛のゆえであります(参照、申命記7:6-9)。

さて、生きた石とされたわたしたち一人ひとりは、聖なる国民、神の民とされました。そして神のイスラエルである教会という共同体の一員とされました。教会という共同体の任務(つとめ)は何でしょうか。それは、5節後半「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえをイエス・キリストを通して献げる」ことです。即ち第一は神を礼拝することです。第二は生活全体を神に献げる感謝の生活をすることです。第三は伝道です。札幌中央教会の2010度教会標語は「伝道する教会」です。



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